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火曜日, 5月 31

Team SAKEの紹介記事(両丹日日新聞)

両丹日日新聞5月31日版に、Team SAKEの活動紹介記事が掲載されました。

ウェブ上でも「WEB両丹」において、閲覧することができます。

被災地支援講演会:三陸海岸の孤立集落へ チームSAKE

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


両丹日日新聞2011年5月31日のニュース

被災地支援講演会:三陸海岸の孤立集落へ チームSAKE


 福知山市牧の市リサイクルプラザでは29日、市民団体の福知山環境会議(田倉徹也代表)の総会に合わせ、記念講演の講師の一人として府地球温暖化防止活動推進センターの川手光春さんが招かれた。

 「東日本大震災 被災現場での支援活動を通して感じたこと-今、私たちにできること」と題して、被災地やボランティア活動の様子を収めた写真をスクリーンで紹介しながら話した。
 
 川手さんは、復興支援をする京都を拠点とした「チームSAKE」主メンバー。行政などを通じた大規模、画一的な支援とは別に、集落それぞれの望みに沿った支援に力を入れている。
 
 2回にわたって、2週間以上、三陸海岸沿いの孤立集落に出向き、地元の人たちと対話を重ね、毛布や調味料など生活支援物資を届けるなどの活動をした。
 
 「復興が一番早かったのは自衛隊員や土木作業員らが連携しての道路、次に早かったのが電気で、瓦礫の中に電柱が建て直されているところも多い。水はいまだに不足しているところが多い」と話したあと、「瓦礫の粉塵、ヘドロの悪臭、続く余震など、現地に行ってみないと分からないことがたくさんある。被災地の人たちは明るく接してくれる人が多く、逆に勇気づけられることもある」と話した。
 
 「今後は、現地の産物を京都に持ち帰って売る経済支援や、集落の人たちに自立の意識を持ってもらうため、将来像の実現に向けての協力をすることも大切になると思う。支援の形はいろいろあり、刻々と変わってくる。現地でのボランティアや活動している団体への支援、義援金を送る活動、節電などに努め、地元の災害時に備えて自治会のつながりを強めることも忘れないでほしい」と話した。

月曜日, 5月 30

箱崎白浜の記事(毎日新聞)

毎日新聞5月30日版に、箱崎白浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

東日本大震災:大雨で集落孤立の恐れ 釜石・白浜地区

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:大雨で集落孤立の恐れ 釜石・白浜地区


東日本大震災で被災した岩手県釜石市箱崎町の白浜地区では、お年寄りを中心に避難所から自宅に戻る人が出始めている。しかし、集落につながる唯一の市道は路肩が崩壊し、梅雨や台風による雨の影響も心配だ。地盤沈下のため高潮で冠水する恐れもあり、このままでは孤立化しかねない。【黒田阿紗子】

 東北地方は30日、温帯低気圧と前線の影響で風雨が強まった。箱崎半島の先端、白浜地区に向かう道路は立っているのがやっとで、道路には波が打ち寄せ水しぶきが立っていた。

 市中心部から約15キロ離れた同地区では115世帯のうち60世帯が津波被害を免れた。

 「やっぱし住み慣れた土地が一番。父ちゃんの体調もまず、いいみたい」。4月末、漁業の佐々木シゲ子さん(68)は肺がんを患う夫(77)とともに、いち早く地区の山手の自宅に戻った。

 津波で、半島は付け根部分まで壊滅状態となった。地区は孤立し、全世帯が自衛隊のヘリコプターで内陸の市民体育館へと避難した。夫は不眠を訴えるようになり、4月に入って口癖のように「帰るべし」と繰り返し、帰宅を決断したという。

 以前の暮らしとはほど遠い。2隻の漁船は流され、収入はほとんどない。最大の不安は半島を縦断する一本道の市道だ。道路に沿った広大な砂浜が津波でさらわれ、一部区間は道幅が半分に削られてしまった。地盤沈下で高潮になると通行できなくなる恐れがある。

 地区に店はなく、市道を通らなければ買い物にも行けない。避難世帯もあり、隣近所は留守だ。「夜は不気味なほど暗くて心細い」

 だが、市防災課の担当者は「代替道路や防潮堤の整備を検討する必要があるが、見通しは立たない」と話す。

 一方、佐々木寿子さん(40)は自宅は無事だったが、避難所暮らしを続ける。戻っても小学5年の長女(10)と4年の長男(9)が学校に通うには、一本道を避けられない。「冠水して家に帰れなくなったり、スクールバスが事故に巻き込まれないか心配」。地区外の仮設住宅の入居を申し込んでいる。

 県はこうした事情から、白浜地区の住民は被災していなくても仮設住宅の入居を認める方針だ。町内会長の佐々木孝郎さん(63)によると、子どものいる世帯のほとんどが仮設への入居を希望しているという。孝郎さんは「しばらくは年寄りが白浜を守っていかねば」と語った。

毎日新聞 2011年5月30日 11時16分(最終更新 5月30日 12時19分)

土曜日, 5月 28

小渕浜と牡鹿半島の仮設住宅の記事(毎日新聞)

毎日新聞5月28日版に、小渕浜の記事が掲載されました。
牡鹿半島の仮設住宅事情に関しても書かれています。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

仮設住宅:盆までに全員入居厳しく…宮城・沿岸部で遅れ

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


仮設住宅:盆までに全員入居厳しく…宮城・沿岸部で遅れ

 東日本大震災で被災した宮城県で、菅直人首相が掲げた「お盆のころまでに被災者全員の仮設住宅入居」の目標達成が困難になっている。集落維持や農漁業再生などを求める被災者の要望を受けて、三陸沿岸自治体が域内での用地確保に奔走し、7月中旬までの着工が難しい状況だからだ。県は内陸部に建設したい考えで、沿岸市町とは落差がある。着工の進捗(しんちょく)率は、100%に達した内陸自治体がある一方、三陸沿岸自治体は5割前後にとどまっている。【中尾卓英、宇多川はるか】

 ◇石巻など着工5割
 県内最多の8000戸が必要な石巻市の進捗率は5割を切る。市は今月上旬、必要戸数が供給を上回る市内3地区で、自治会などに民有地提供を依頼。「津波に浸水せず最低10戸が建設できる」「ライフラインが整っている」などの条件を満たした牡鹿地区の6カ所で今月中旬からようやく樹木伐採、切り土などの造成工事を始めた。

 約3200戸が必要な気仙沼市の進捗率は59.4%。津波と火災に見舞われた中心部では、公有地に建設する仮設住宅194戸に対し、1260件の申し込みが殺到した。

 市は6月末を目標に今後必要な約1320戸分の用地確保に駆け回るが、民有地提供を申し出た約130件のうち、建設条件を満たすのは1割程度。市は31日の臨時市議会で、さらなる民有地確保を目指し造成費と賃料支払いを提案する方針だ。県は民有地を使用する場合は無償を条件に挙げるが、土地確保には賃料が必要と判断した。

 菅原茂市長は「県は仮設住宅を内陸部に建て早く仕事を終えたいだろうが、私たちの使命は市民に住み続けてもらうこと。また、避難生活長期化に備え、クーラー設置など環境改善を図りたい」と話す。

 県は震災直後、仮設住宅が3万戸必要と試算したが、賃貸住宅入居や自宅補修する被災者が増え、今月19日に2万3000戸に下方修正した。お盆入居には1カ月前の7月中旬までに着工する必要があるとみている。

 県土木部は「梅雨や夏になると、避難所ではさらに体調を崩す人が出てくる。内陸部に土地が十分にあり、沿岸の市町にはできるだけ早く内陸部(の自治体)に引く判断をしてほしい」と話している。

 ◇自力で再生の地区も
 域内での仮設住宅用地の確保が難航し、着工進捗率が5割を切る宮城県石巻市。同市の牡鹿半島・小渕浜地区では、民有地への仮設住宅建設を渋る行政側を住民が説き伏せ、住民が確保した土地での建設を認めさせた。中心になった行政区長の石森政彦さん(69)は、海近くの高台で進む造成工事を見ながら「地元で生活再建する道筋が見えてきた」と顔をほころばせた。

 石森さんらは4月初旬、市に「現地を見に来てくれ」と訴えたが、なしのつぶて。高台にある耕作放棄地の所有者8人に「5年間、無償で土地を貸してくれないか」と声をかけて同意を得、自らも土地提供を決めた。仮設住宅100戸が建てられる用地を確保した。

 だが4月30日、牡鹿地区の区長を集めて初めての説明会を開いた市幹部は「県が民有地は駄目だと言っている」といったん断った。それでも石森さんらは説得を続ける。県の担当者が視察に来たのは今月10日。「この土地ならできます」。15日に樹木伐採が始まった。完成は7月末の予定だ。

 9割以上が漁業に携わる同地区。8割を超す130戸が流失・全壊した。住民は自らの力で食料や簡易水道を確保するなど漁師町の絆で避難生活の苦難を乗り切ってきた。「今は家族と離ればなれだけど、海からは離れられねえ」「家も漁具の入った納屋もすべて流されてた」。住民の声を聞き、石森さんは「亡くなった人のためにも、もう一度古里を再生させねば」との思いでやってきた。

 石森さんは地区の世帯構成を調べ、どんなタイプの住宅が必要かを市に説明するつもりだ。「地元に仮設住宅が建てられるめどがついて、やっとみんなが家族や仕事のことを考えられるようになってきた。これからだ」と前を見据えた。【中尾卓英】

毎日新聞 2011年5月29日 13時02分(最終更新 5月29日 16時00分)

木曜日, 5月 26

船越からの連絡

※船越集落とは、一刻も早く復興し、モデル地区になって、船越出身の方や、他の集落の方を元気づけられれば、と立ち上がり、全力で動いている漁師の村です。


雄勝半島、船越集落の中里さんとのお話から、みなさんと共有したいことをお知らせします。

漁師さんたちは少しずつ力を取り戻している様子です。

引き揚げた18隻の船のうち、15隻が直せば使えそうな状況だそうです。
船を見たときの漁師さんは、「血が騒ぐのを感じた。」と言っておられました。
また、フナムシが海に戻ってきた。思っていた以上に海がきれい。海産物がよく育っている。など、その都度、歓声を上げて連絡が来ています。
「おれたちは、やっぱり漁師なんです!海に出れるだけで、元気になる。」と、言っていました。

本日より、瓦礫の撤去や浜での作業が、仕事として雇われることになりました。
これにより29名が働くことができています。
光が見えてきているとのこと。

現在、ワカメの放射能の検査中ですが、もしも出荷できる状況であれば、いち早く(最短で6月1日)売り出して、船越出身の人たちを元気づけたい、他の集落の人たちの復興への希望になればとのこと。

昨日は、大量にワカメをボイルしました。
塩蔵ワカメのための塩が大量にいるとのことでしたが、それまで仕入れていた塩が仕入れられず、チームサケに連絡がありました。
サケメンバーの西尾がいろいろなところにかけあった末(それぞれ被災されていて自社の復興で精いっぱいな状況)、東日本ソルトの雄勝半島出身の方とつながり、動いていただきました。

その方は先週、雄勝に帰ってがっかりして戻って来たということで、船越がわかめをやるというので驚いていると話してくれました。

その後、すぐに漁師さんたちも動き、昨日、10tの塩が直接届けられました。

小学校の瓦礫の撤去も進み、きれいな部屋を一つずつ作っています。
内陸に避難している集落の方たちが帰ってきた時やボランティアの人が来た時の休める場所にするためです。

今日は、京都の大工のロバートさん(IDRO JAPAN代表)が、船越小学校に冷蔵庫と洗濯機と電子レンジを届けてくれる予定です。
冷蔵庫などがあれば、集落に帰ってこられた方たちも、より快適に過ごせることと思います。

船越には3名の大工さんがいますが、(350名の住民のうち)
皆、石巻市内に引っ張りだこで、集落内の大工仕事が全く手つかず状態です。
大工さんの訪問は短い時間であっても、力になると思います。

漁師さんたちも、修理などできるそうですが、時間のほとんどを浜での作業(漁具の回収や、瓦礫の撤去)や陸での作業(集落の人にとって大事なものがないか探しながらの作業です。また、まだ見つかっていない方も同時に探し続けておられます。)に費やしていているのが現状です。

船越の復興についてアドバイスなどの面で協力することを表明してくださっている建築士の方たちが出てきました。
心強いです。


同時に、報道を通じてわかることや、電話連絡などからわかることですが、集落の解散や集落からの反対の声などが大きくなってきています。

team SAKE 大関はるか



以下は、足立から記事の共有です。



足立です。

女川町は「集落の統合」による復興計画を町が示し、住民側が反発しています。
町長の「効率と安全を重視した」という言葉が、多様性や土地とのつながりなど多くの要素が考慮されない状況を鮮明に浮かび上がらせています。
集落にとって、いよいよ正念場です。


東日本大震災 高台移住計画に漁業の町から反発の声
毎日新聞 5月22日(日)20時57分配信

東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県女川町で22日、町の復興計画策定に向けた住民公聴会が始まった。町は沿岸部の住宅を高台に集約して住宅団地にする構想を説明。しかし、漁港から離れて暮らすことに住民からは一斉に反発の声が上がり、復興の道のりの困難さをうかがわせた。

 震災で、同町と石巻市にまたがって立地する東北電力女川原発は大惨事には至らなかったが、町沿岸部は津波でことごとく破壊された。町は5月初旬、安住宣孝町長らが中心となり復興計画案を策定。公聴会は22日は町内2カ所で開かれ、計約230人が参加した。

 町は公聴会で(1)安心・安全な港まちづくり(2)港町産業の再生と発展(3)住みよい港まちづくり--を柱にした復興の基本的考えを提示。内陸の高台に住宅地6カ所を造成して、沿岸に暮らす漁師らに移住してもらい、漁港は集約させるという計画を説明した。

 しかし、漁師ら住民側から「先祖代々の土地や家があるから漁へのパワーが出る」「育った土地を捨てるわけにはいかない」などの反対意見があがった。

 避難場所の秋田県から来た同町竹浦の漁業、鈴木誠喜さん(64)は「古里は忘れられない。他の場所に移るとなれば、希望がなくなる。長年暮らした、海が見える場所では駄目か」と町長に迫った。

 公聴会後、安住町長は「効率と安全を考えた案を出したつもりだが、反対する気持ちも分かる」と語った。

 公聴会は27日にも2地区で開催。町復興計画委員会は構想計画の中間答申案を8月上旬までにまとめるという。【石川忠雄、川上晃弘、宇多川はるか】

火曜日, 5月 24

小渕浜の記事(読売新聞)

読売新聞5月24日版に、小渕浜の記事が掲載されました。

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


「日本一」誓い養殖再開


宮城県石巻市小渕浜西出当の佐々木茂則さん(59)は今月に入り、ワカメの養殖を再開した。3月11日の地震発生直後、船を避難させるため沖に出ている最中に寝たきりだった母を津波で失い、入院中だった父も間もなく母を追いかけるように亡くなった。自責の念は消えない。だが、「両親が船を残してくれた。日本一のワカメとカキをまた作ろう」と漁師の誇りが失意を乗り越えさせてくれた。

 「海から上がった漁師は何者でもねえ。時間かかっても漁再開すっぺ」

 小渕浜地域でワカメを養殖する漁師約35人が集まった際、最年長の佐々木さんは、漁師を辞めようかと嘆く若い漁師に酒をつぎながらそう励ました。

 同地域は、ワカメやカキの養殖が盛んな漁師の町だったが、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた。収穫最盛期を目前に漁場が被災し、ワカメやカキはすべて津波に流された。

 地震発生直後、佐々木さんは船を避難させようと沖に向かった。

 妻の巳代子さん(58)に寝たきりの母かめのさん(89)を任せ、カキ養殖用の7・2トンの漁船に乗り、ワカメ養殖用の3・5トンの小舟を4隻つないで出港した。

 沖では漁師仲間と無線で安否確認をし合った。ラジオを積んでいる仲間から「10メートル以上の津波が来る」と聞いた。真っ暗な沖からは、港が火災で真っ赤に燃え上がっているのが見えた。15時間後、漁港に戻ると母の自宅も漁場もなくなっていた。

 近所の人から、巳代子さんがかめのさんを避難させようと車いすを用意している時、倒れた家具が出入り口をふさぎ、その直後に津波が来たことを聞いた。身長が1メートル60以上ある巳代子さんの目の上まで泥水があふれた。

 巳代子さんは、引き潮で足がぶつかり、割れた窓ガラスの隙間から、近隣住民に助け出されたという。かめのさんは既に息を引き取っていたが、その後の津波で流され、遺体はまだ見つかっていない。

 その10日後、高台の病院に入院していた父の久喜さん(83)も容体が急変し亡くなった。「ばあさんはさみしがり屋だから、じいさんを連れてったんだべ」。そう思うと涙があふれた。船を守って両親を助けなかった自分を責める日が続いた。変わり果てた漁場を見て、漁師を辞めることも考えた。

 だが、時間がたつにつれ、船を失った仲間が意気消沈しているのを見て、海で生きる者にとって船がないことは命を取られるのと同じだと思った。「漁師を続けろ」と両親が遺言を残してくれた気がした。

 佐々木さんは5月に入ってから毎日、午前8時から午後3時頃まで、海のがれきを撤去したり、ブイなど使える資材を回収したりと海の清掃活動をし、その合間を縫って、ワカメの苗造りに必要なメカブの採取も始めた。

 久喜さんの骨はまだ納骨していない。かめのさんの遺体があがったら、一緒に納骨するつもりだ。「その時はワカメをお供え出来たらいいべなあ」。佐々木さんはそう話した。

    ◇   ◇

 石巻市内で5月14日まで約9日間、取材した。身内を亡くし、避難所から通勤するタクシー運転手や市役所職員、水産加工会社員。彼らは口をそろえて「仕事をしている間は、悲しい気持ちを忘れられる」と語った。被災者の生活再建、そして心を前に進めてもらうためにも仕事の場の確保は重要だ。被災地から離れた場所でも、東北地方の特産品を購入するなどで雇用確保に少しでも貢献できるはず。息の長い支援を続けたい。(佐藤友紀)

(2011年5月24日 読売新聞)

日曜日, 5月 22

team SAKEの活動紹介記事(毎日新聞)

毎日新聞5月22日山口版に、team SAKEの記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

■被災地を歩いて:東日本大震災 本州の西の端から 新たなつながりへ期待 /山口

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地を歩いて:東日本大震災 本州の西の端から 新たなつながりへ期待 /山口


 震災発生の9日後、孤立集落に支援物資を運んだ京都大学大学院生、足立大さん(34)は京都に戻ると「被災者には長期的な支援が必要」との思いから、知人ら十数人と支援団体「TEAM SAKE」を発足させた。

 団体名は、物資を2度届けた宮城県南三陸町の馬場・中山集落の人たちから感謝の気持ちとしていただいたサケの切り身にちなみ、住民の一人が「(生まれた川で卵を産む)サケならば、戻ってきてくれるだろう。長い付き合いをしていきたい」と名付けてくれた。

 団体の活動内容は、思うように支援が行き届かない小規模避難所へ、購入した物資をトラックで運搬することだ。被災地の風土や被災状況によって、異なる必要物資を事前に聞き取り、その情報を同団体ブログ(http:/teamsake.blogspot.com/)で掲載。それを見た全国の人たちから届けられた物資も運んでいる。

 チームのまとめ役の会社員、大関はるかさん(31)は支援の在り方について「こちらが『支援をしてあげる』という姿勢では、被災者は受け入れてくれない。支援する側、支援される側という双方の壁を越えなければならない」と語る。

 そのために、1度訪れた避難所には継続的に赴き、対話を通じ、互いに感謝し合えるような関係を構築。被災地を支援したいという人たちと被災者のニーズをブログで仲介することで、被災地とその他の地域との新たなつながりも築いていきたいと考えている。

 今回、私が連載で被災者の状況や支援者たちの声を伝えたのも、読者と被災者との間にも新しいつながりができるきっかけになればとの思いからだった。連日、新聞やテレビ、インターネットで被災地の様子が伝えられるが、一人でも多くの人が報道をきっかけに被災者に思いを寄せ、そしてあと一歩何か踏み出してもらえたら、うれしい。それが「伝える」ことをなりわいとする記者たちにとって本望だと思う。

   ◇  ◇

 今連載で取材した東北の皆さんへのメッセージを受け付けています。なお被災した皆さんの負担を考え、「返信不要」との旨で送らせていただきます。ご了承ください。はがきで〒751-0823 下関市貴船町3の1の2 毎日新聞下関支局へ。【尾垣和幸】=おわり

〔山口版〕


毎日新聞 2011年5月22日 地方版

金曜日, 5月 20

船越の海


船越集落の中里さんによると、今朝ほど船で海に出て箱めがねで覗いてきたところ、海底の様子は地震前のように綺麗で、思っていた以上にワカメが育っており、アワビ、ウニ、ホタテ、ひじきなども見られ、早速アワビなどを獲ってきたそうです。

船越はじめ雄勝半島の北東側は太平洋に面し、北上川から供給される養分で成り立つ生態系のため、養殖だけでなく天然海産物が豊富だそうです。

やはり、海の自然回復力はすごいです。


出荷するには放射能検査を受けなければならないので、それはまだ少し先になりますが、海の方は順調だ、あとは人さえ戻って来られるようになれば、とおっしゃっていました。


team SAKE 足立

木曜日, 5月 19

雄勝半島・牡鹿半島で、集落消滅が進んでいます

船越集落の中里さんから、「雄勝の水浜・分浜・波板の3部落が解散した」との連絡を頂きました。集落としての復興をあきらめたということを意味するので、とても残念なお知らせです。
また、以下の報道にある全戸が被災した牡鹿半島の大谷川浜はじめ、この地域には非常に厳しい状態にある集落が他にも多数あります。

■「元には戻らない…」 残ったのは5人だけ 住民移転で集落消滅の危機(msn産経ニュース)


雄勝半島・牡鹿半島周辺では、現在集落の消滅が進行しつつあるようです。いよいよ始まったか、という感じです。
このような状況を少しでも食い止めるためにこれまで動いてきたこともあり、予期してはいたことですが、無力感で一杯です。

各集落がその場所に存在し、人々がそこで生活されてきたからこそ伝わってきた知識・文化や自然との接点の一つ一つが失われていくことが、残念でたまりません。生物が絶滅していくのと同じような感覚です。

こうした中で、船越のように自主的な復興の動きがあることは、非常に力強いニュースですし、現在揺れ動いている他の集落に与える影響も少なくないと考えます。

また、復興の動きを小渕浜や船越だけに留まらせないよう、SAKEの各メンバーも至急動くべき時だと思います。このことを外部に発信していくことは、「モデルケースになろう」という中里さんらの意気込みとも通じるものがあろうかと思います。

現時点で大切なのは、コミュニティーとしての集落住民のつながりの維持だと思います。家が被災した状況でこのまま集落に住み続けるのは現実的に無理だとしても、条件さえ整えば戻ってこられるように、復興までしばらくの間、どのようにつながりと気持ちの維持をしていけるかが、各集落が生き残っていく上での課題でしょう。被災前の時点で集落に住んでいた方々は、本当は都市の一無住人としての暮らしを望んではいないはずですから。

私は第6陣での船越訪問時、中里さんらの「船越でやっていきたい」という気持ちを後押しする形で「船越で復興すること」の大切さを説明したつもりですが、今後は各集落での対話の仕方も「必要なものありませんか?」という聞き出し方から、「集落で暮らしていくためにどうしたらいいか」を汲み取りながらそれを勇気づけていけるような、次のステップに変えていきましょう。


team SAKE 足立

船越の記事(河北新報)

河北新報5月19日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

「古里にカエル」夢見て/海産物店経営・三浦慶市さん(59)=石巻市雄勝町

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


「古里にカエル」夢見て/海産物店経営・三浦慶市さん(59)=石巻市雄勝町


◎守り神に願掛け店再開

 店の前に鎮座するのは巨大なカエルの石像。背中にかわいらしい5匹の子ガエルが乗っている。
 「全部で6匹いるから『ムカエル』。お客さんをムカエル、幸せをムカエル…。開業の時に縁起担ぎで造園業者から買った、店の守り神なんだ」
 石巻市広渕に開いている海産物店で、経営者の三浦慶市さん(59)が表情を緩めた。このカエルが、3月11日の東日本大震災で折れそうになった心を励ましてくれたのだという。
 広渕は仮設店舗。三浦さんは旧宮城県雄勝町の石巻市雄勝町船越で生まれ、地元の浜で25年前から「みうら海産物店」を妻寿美子さん(56)と2人で営んできた。
 三陸の海で採れたウニやホタテ、アワビを水槽に入れて販売し、自宅に併設した工場では昆布やワカメなどを加工、パック詰めにして、各地に配送してきた。豊富な種類と新鮮さに、北海道や関東からも注文が来た。
 地震に襲われたのは、三浦さんが旧雄勝町の外へ出て配達をしている時だった。約130世帯の船越地区は、高台を残して全域が津波にのまれた。三浦さんの店や工場、家もすべて流され、従業員6人のうち1人が犠牲になった。

 生活の場を失い、住民は次々と旧雄勝町から移っていった。高齢者が多く、再起する気力さえ失う人もいた。地道に積み重ねた財産をすべて奪われた三浦さんも一時廃業を考えた。
 その時、「商売を続けるなら、空いている土地を貸そう」と古い友人が声を掛けてくれた。船越から30キロほど離れた広渕地区の山あいだった。
 「裸一貫で出直すことに不安もあった。ただ、妻も従業員も『やるならついていく』と言ってくれた。一人でも力になってくれる人がいる限り、頑張ろうと思った」
 再出発の場所にプレハブ小屋やコンテナなどを運び入れ、仮設店舗と商品の保管倉庫にした。
 被災を免れた海産物加工品のほか、他地域からも商品を取り寄せ、5月初めに何とか店開きした。
 船越の住民としては第1号の営業再開だった。

 創業以来、店の前で商売を見守ってきたカエルの石像は、トラックで仮設店舗の前へ運ばれた。
 津波で10メートルほど流されたが、ほぼ無傷だった。初心にカエル。「商売を始めたころの熱い気持ちを思い起こさせてくれた」と三浦さんは言う。
 「海のものは、海の近くで売ってこそ価値がある」が信念。旧雄勝町から避難し散り散りになった住民と、一日も早く古里に戻れる日を夢見る。
 そのため「漁業者の仮設番屋や、雄勝硯(すずり)など特産品を売る商工業施設を旧町内の港に建てたい」。公的制度を活用し、復興のシンボルにもなる事業の要望書をまとめ、三浦さんは先日、地元商工会に出した。
 「船越は、磯の資源が豊富で本当にいい所なんだ。いつも願を掛けている。必ず『古里にカエル』って」。震災前と少しも変わらない「守り神」に目を細め、慣れ親しんだ海を心に描いた。
(成田浩二)


2011年05月19日木曜日

水曜日, 5月 18

箱崎の記事(朝日新聞)

朝日新聞5月18日版に、箱崎の記事が掲載されました。

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自慢の鼻で6人発見…見習い警察犬クララが不明者捜索

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


自慢の鼻で6人発見…見習い警察犬クララが不明者捜索

2011年5月18日


警察犬を飼う岩手県釜石市箱崎町の金野伸明さん(61)は、大半の住宅が倒壊した地区で仲間と一緒に警察犬による行方不明者の捜索にあたってきた。がれきの下から6人を見つけた。「犬の鼻が大いに頼りになりました」と金野さん。

 金野さんは3月11日、勤め先から車で帰宅途中に迫ってくる津波を目にし、すぐに車をUターンさせて難を逃れた。高台にあった自宅は無事だったが、県内の友人宅へ避難した。

 275戸の同地区で残ったのは高台の住宅45戸だけ。16日現在、死者49人、22人が行方不明者だ。

 金野さんは震災5日後から捜索を始めた。3月18日からは県内をはじめ青森県からも駆けつけた仲間12人の警察犬も加わった。

 金野さんは1983年から嘱託警察犬の指導手として警察の捜査や不明者の捜索などに協力してきた。今回は5歳の警察犬を亡くしたばかりで、訓練中のシェパードのクララ(メス、1歳)を使った。

 「捜せ」と命じると、がれきのすき間から中に入り、人のにおいをかぎつけると、ほえたり、前脚で地面をかいたりする。その場所には「犬」とスプレー塗料で印をつけ、後から自衛隊に捜してもらった。

 旋盤工として40年余り勤めた鉄工所が被災し、解雇された。体調を崩した町内会長の代行として自衛隊の捜索に立ち会い、家族への連絡にも携わった。近く短期雇用のがれき撤去にも出かける予定だ。

 金野さんは「警察犬の仲間やクララをはじめ多くの警察犬に助けてもらい感謝しています」と話した。(三上修)

名振の記事(朝日新聞)

朝日新聞5月18日版に、名振の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Asahi.com My Town 大阪」において、閲覧することができます。

被災地に漁船寄贈 堺の会社員ら「すぐ役立つように」

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地に漁船寄贈 堺の会社員ら「すぐ役立つように」

2011年5月18日


東日本大震災の津波で漁船が全滅した宮城県内の小さな漁港の復興を願って、大阪府堺市南区の舞台美術製作会社員上田宗広さん(46)らが中古漁船2隻を地元漁協に贈った。被災地の海で、流された船の回収やがれき撤去の準備作業などに活躍し、うち1隻は「希望」と名付けられた。

 上田さんは震災直後の報道で、連絡船が津波で流されて宮城県気仙沼市の島が孤立したことを知り、心を痛めた。「被災地には船が必要だ。漁船を贈って復興に役立ててほしい」と考え、友人で船の取引に詳しい自営業吉田典弘さん(39)=東京都江戸川区=に相談。吉田さんの知人で船の販売や廃船処理を手がける「石澤金型製作所」(埼玉県越谷市)取締役の石澤昇さん(56)と3人で、同社が所有していた全長9メートルと10メートルの中古船2隻を被災地に届けることを決めた。

 2隻のうち1隻はエンジンを取り換え、1隻は塗装を新しくした。船の代金も含め約100万円の費用は3人と石澤金型製作所が負担する。上田さんは「義援金より、漁師さんたちの生活の再建にすぐに役立つことがしたかった」と話す。

 吉田さんと石澤さんがかつて勤務したことがある宮城県内に贈ろうと県漁協(石巻市)に相談。津波に襲われ1隻も漁船が残っていない石巻市雄勝町名振の雄勝町東部支所名振支部と山元町の山元支所を紹介された。

 4月13日、1隻を陸送で名振漁港へ運んだ。リアス式海岸の漁場はアワビやウニが豊富でワカメの養殖も盛んだったが、約100隻の漁船は全滅。92軒あった民家も津波で13軒しか残らなかった。

 避難所で暮らす同漁協名振支部長の大和久男さん(56)は「震災後、海の様子を見に行くこともできなかったが、いただいた船でワカメ養殖のイカダがあった場所を見に行ったり、沖に流された船や養殖の浮き球を回収したりできた。船には『希望』という名前を付けました」と話す。

 もう1隻を贈った山元支所がある同町磯浜地区も津波に襲われ、約150軒の集落のうち残ったのは高台の数軒だけ。遠浅の海は特産のホッキ貝の漁場だが、約40隻あった漁船は流され、港も使えないため、船は隣町の亘理町の港に4月23日に運んだ。

 被災し、アパートで仮住まいをする同支所運営副委員長の大和郁郎さん(64)は「どこに頼っていいかわからなかったのに、知らない人から支援してもらってありがたい」と話し、「贈られた船を使い、海のがれきを撤去するため、がれきのある場所に標識を立てた。漁が再開できたら、とれた魚でお返ししたい」。

 宮城県によると、県内に142ある漁港がすべて被災し、漁船の9割にあたる約1万2千隻が津波で流された。上田さんは「漁師さんたちが海の幸を出荷できるようになるまで、支援を続けたい」と話す。現在、5隻の漁船を贈る準備を進めており、活動資金の支援を募っている。問い合わせは上田さん(090・6204・6881)へ。(八田智代)

月曜日, 5月 16

第6陣 船越集落(雄勝半島)

こんにちは。6陣のはるかです。
雄勝半島の船越集落の帰り道です。

今回船越へ赴いたのは、現在、船越の中心人物である中里孝一さんからの電話があったからでした。
船越に残っている者はここを復興していきたいと思っている。夢物語みたいに聞こえるかもしれないけれど、本気でやっていきたいと思っている。一度出ていった者も徐々に帰ってきている(又は復興する見込みがあれば帰って来る人も多いだろう)という状況・心境にある。
船越が一つのモデル地区となるような意気込みで構想実現に向けて動いていきたいので、人脈やアイディアなど力を貸してほしい。とのことでした。


船越へは三枝つよしがリーダーのチーム(第3陣、第5陣T)で何度か訪れています。が、今回赴いた3人は初船越でした。
急を要している点、サケに期待をかけられた(おそらく)重大で代え難いプロセスの始まりであった点から、今回の訪問を急遽決めました。
環境経済学が専門で、人と自然の有機的なつながり(と言う意味の「環境」)を考えている足立と、都市・地方計画(まちづくり)を仕事にしている松本さんと、割と顔が広く、仕事場が省エネや自然エネルギーをやっていて、自分自身ワークショップをする機会があるはるかの3人でした。

訪問したことのあるメンバーから聞いていたとおり、中里さんは、遠洋漁業をしていた際に世界中で得た広い視野と、漁師としての誇り、みんなのことを心底思うやさしさを持ち合わせた 魅力あるリーダーでした。


集落全体を丁寧に丁寧に紹介してくださいました。

ほとんどの家が壊滅状態で、小学校も3階まで浸水、水産加工場(仕事場)も壊滅状態でした。
ですが、350人の集落で犠牲となったのは9名で、多くの方が助かりました。
最大の津波の後の引き潮の時に、若い人たちが動けずにいた高齢の方を助けたり、山の上の神社に避難された方のところへ、毛布や食料を届けたりされました。
避難所の一つだったところの鍵を持っていた方は、とっさに避難所としては低すぎると判断し、鍵を開けずにまだ高いところへ行けと叫ばれたそうです。
一方で、もう一カ所の避難所であった曹洞宗のお寺の和尚さんが最後までお寺に残り、流されてしまいました。
和尚さんのことを、みなさんは普段からとても誇りに思っているようでした。幼いころの病気で言葉に障害があって、決してお経を読み上げるのは上手ではないかもしれないけれど、心のこもったすばらしいお経だったと。奥さんとお子さんもそれぞれ障害があって、今は遠くに避難しており、本堂や庫裏が流されたままになっている。なんとかしてお寺のための義援金を集めて、お寺を復興し、呼び戻したい気持ちがある。自分たちにとってはここが唯一のお寺だから。と話されました。


息子さん夫妻とお孫さんを失われた方は、「最初は悪さした海をみたくねぇと思ったけど、息子らと同じ風にあたり、同じ季節を感じて生きていきてぇから、今は船越の復興に全力を注ぎたい」と、「これまで以上の生活は望まない。失って初めてわかった家族、船、家、仲間の大切さ。船越の豊かさ。なんでもねぇ生活がどんだけありがてぇか。それをまたやりてぇ。にくい海だけど、俺らはその海の恩恵を預かってきた。また海と暮らしてぇ。」とお話してくれました。

ほかにも船越の湾がどれほど豊かであるか、一年のお仕事の移り変わりを聞いてわかりました。ふつう集落の中には同じ名字の方が多いですが、ここは色々な名字の方がいます。それは豊かな漁場で多くの人が入ってきた歴史があるからとのことでした。
湾の向き、北上川、森と沢の関係で豊かな漁場を作っていることも知りました。


これまでも様々な経験をしてきたけれど、海の自浄能力はすごい。海は必ず復活する。とのお話も印象的です。

みなさんの構想や どんなに船越の自然が豊かで どんなに人のつながりが豊かで どんなに船越である必要があるのかを伺った後、私たちの方から、仮ですが、それらを第三者に説明できるような図や形にして発表しました。

それまで2日間、私たちに集落全体の話をしたり、失った方のお話をしたりする中で、たくさんのつらい出来事を話されても、とても落ち着いた中里さんでしたが、足立が図の説明をしながら、みなさんの思いはこういうことですか?と確認をしている間、中里さんは大粒の涙を流しておられました。


今後、もっと多くのみなさんのご協力が必要になります。
船越集落のこと、頭の片隅に置いておいてください。


team SAKE 第6陣 はるか・足立・松本

日曜日, 5月 15

team SAKE第1陣の活動紹介記事(毎日新聞)

毎日新聞5月15日山口版に、team SAKE第1陣の記事が掲載されました。
まだチーム名をつけずに活動していた時期なので、記事中で「team SAKE」という呼び方はされていません。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

被災地を歩いて:東日本大震災 顔見える支援の大切さ痛感 /山口


team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地を歩いて:東日本大震災 顔見える支援の大切さ痛感 /山口


 岩手県に派遣された直後、私は震災で外部との交通・通信手段を断たれた孤立集落に支援物資を運ぶ京都大学大学院生2人に同行取材した。

 同大サイクリング部に所属する足立大さん(34)と伊藤栄俊さん(25)は「車では行けない場所に自転車で物資を届けよう」と軽トラックにマウンテンバイクと物資を積み、京都市を3月20日に出発。21日には宮城県南三陸町の孤立集落に入り、米やみそを届けていた。22日、岩手県一関市で2人と落ち合い、トラックに同乗して同県陸前高田市や大船渡市を巡回。その夜、トラックで南三陸町の泊崎半島にある馬場と中山の二つの集落に到着した。

 両集落は約200世帯が津波で流され、小さな公民館に95人が避難。車で着くことはできたが、津波で海沿いの道ががれきでふさがれ、物資の集まる隣の集落へ向かうには細くて急勾配の山道を通らなければならなかった。電気も復旧していなかった。震災後、仙台市から帰郷してきた女性(46)が、被災者支援の過労で倒れたが、電話を使えず、救急車を呼べなかった。女性は数日後、体がけいれんし、亡くなったという。避難所の責任者で漁師の阿部倉善さん(61)は「神様仏様に祈っても仕方ねえ状態だ」と怒りと悔しさが混じった声で話した。

 足立さんたちがトラックから米やみそ、ガソリンの入った携行缶を降ろそうとすると、被災者たちは「本当にありがたい」と満面の笑みを浮かべ次々と集まってきた。何よりも外部から人が来たことに「よくこんな所まで来てくれた」「この集落を忘れねえでくれ」と喜んだのが印象的だった。

 帰りのトラックの中で足立さんは「被災地が広範囲に及ぶから、支援が遅れる地域もある。中には『自分たちは忘れられた存在』と思う人も出てくるだろう。支援をする人、受ける人が、互いに相手のことが分かるような、顔の見える支援が大切だと思う」とつぶやいた。

 被災地の復興には数年、数十年の長い年月を要するだろう。被災者たちの顔が見えれば支援も長く続けていけるのではないか。「顔の見える支援」の必要性を感じた。【尾垣和幸】=随時掲載=

〔山口版〕

土曜日, 5月 14

team SAKE 5陣、6陣の報告会

5陣と6陣の報告会を開催します。
今回はお寺の本堂でさせていただきます。

5陣では13名が3グループに分かれて活動してきたため、報告したいことも山のようになりましょうけど、参加者のみなさんとのやりとりも重視した報告のスタイルを考えています。
船越集落を訪れ帰ってきたばかりの6陣の報告も同時に行います。
お誘い合わせの上、ぜひいらしてください。
転送・転載歓迎です♪

■日時:5月21日(土) 12時からDVD上映 13時から15時半頃報告
■場所:京都市上京区 乾窓院(けんそういん)本堂 (仁和寺街道御前西入る北側)
■参加費:500円(会場へのお供えとして)

※12時からNHKの馬場中山集落に関する特集番組のDVDの上映をします。
 馬場中山集落は、第1陣で足立と伊藤ヒデが鮭の塩漬けのお頭をいただいたところ、チームサケ(鮭)と名付けてくれたくれたところです。
 第1陣(かなり状況が厳しい頃)の足立らが写っていますし、その後の変化がずっと継続して撮影されていて、興味深いです。
 私たちがお世話になっている方たちの声や姿を見聞きしていただけると思い、企画します。

※おひるごはんを食べながらDVD、オッケーです。 船越ごはんパンやスイーツは有料です。
※報告の始まる前と終わってから、長野たかしさん(元「五つの赤い風船」ベーシスト)と森川あやこさんの歌、あります。投げ銭歓迎です。

 ■アクセス
①JR山陰線「円町」駅より徒歩12分
②京都駅より市バス205系統 40分
③阪急西院駅より市バス203&205系統 15分
④京阪三条駅より市バス15系統 30分
・②③④いずれも「大将軍」バス停より東へ徒歩4分 山城温泉の東隣

 ■当日連絡先
090-3672-6327 三枝剛 (みえだ つよし)

 ■お問い合わせ
チームサケ teamsake311(あっと)gmail.com



投稿 大関はるか

日曜日, 5月 8

5月7日 5M組 板橋(泊崎半島)でのこと

■板橋(歌津地区・泊崎半島)


馬場中山から京都へ帰ろうとしていたところ、「水求む。避難民11名、犬1匹」の看板を発見。
物資も若干残っているので、急坂をあがり、様子を見に行くことにした。
坂道を上がると一軒の家があり、おじさんが出てきてくれた。
水は持っていなかったため、違う水ならありますよ、と佐々木酒造さんに提供して頂いた京都のお酒をお渡しすると、大変喜ばれた。他の方も出てこられたので、残りの調味料、日用品などを見てもらった。
買い物が難しかったり、支援物資が少なくなってきているせいもあり、調味料や長靴、ゴム手袋などを必要とされ、とても喜ばれた。

旦那さんは、差し入れたお酒をちょびちょび味見しながら、いろいろとお話してくれた。
カジキマグロの漁をされていること。300キロを超える魚の写真を携帯で見せていただいた。
地震の時は、当日から3日間、沖に出て船を守ったとの事。瓦礫が海にも流れてきて、それを交わすので、3日3晩、寝ずに船を守ったとか。
とても楽しく笑いながら対応してくれたが、「こんなに笑ったのは被災して初めてだ」とおっしゃっていた。「もう立ち直んなきゃな。」とも。
奈良県警が、見回りに来てくれて、よくしてくれた。交代で奈良に帰るときに、持っていた食材をすべて差し入れしてくれた。長靴プロジェクトのブログで見てね。
一緒に出てきた中で、ブログをつづっている若い女性もとてもハイテンションに対応してくれた。
その女性の小さな娘さんが食材の中に紫ゆかりを見つけて放さなかった。女性に聞くと、娘さんはゆかりがとても大好きで、ご飯はゆかりをかけるとよく食べてくれるとの事。とても喜んでくれた。
この隙間の支援が、とても重要だと思った。

訪問後すぐに、ブログの中で、TeamSAKEのことを紹介してくれた。
陰陽なる毎日(外部リンク)

翌日、「電話で京都にちゃんとついたか?」とわざわざお電話いただきました。京都まで帰ること気にかけてくれていたのですね。とってもありがたいことです。

team SAKE みつはる、かわた、ひで、にしむら
編集 team SAKE 足立

土曜日, 5月 7

5月7日 5M組 馬場中山


現在、チームSAKEでは、助成金の申請を準備している。一方で馬場中山が独自に申請したら良いのではと考えており、その旨を代表者にお話した。
「今、率直に欲しいのは、船!集落では一艇も残っていない。
でもその前に海の中の瓦礫を撤去しなければ、船も入れることはできない。
ユンボ重機は2ヶ月間無償で借りることができている。今日も休日だが、休ますのがもったいないので、重機を使った作業をしてもらっている。
助成金の申請自体は、中山集落だけでは決められないので、馬場集落とも相談し、みんなで意見を出し合ってみる。」との事。申請をチームSAKEでも協力する旨伝えた。

「馬場中山には、多くのボランティアがやってきている。そのおかげで成り立っている。今までは、まったく行政に頼らずにやってこられた。しかし、仮設住宅の件など、これからは行政にもお世話になりながらやっていくしかないと思っている。」とのこと。

その後、望遠鏡を希望していた方にお会いでき、簡易な望遠鏡をお渡しした。
海を見て、何が浮いているのか確認したいとの事。簡易な望遠鏡でもある程度見られたが、実際欲しいのは、それ(10×25倍)よりも3倍くらい見える普通の望遠鏡とのこと。
以前、舟がひっくり返って浮かんでいたのが見えたが、今では波の関係で移動してしまって、それがどこにあるのかなどを確認したい。海に浮かんでいるものが見られると、引き上げるときなどに役立つとの事。
※支援して頂ける方は、必ず以下のページを確認しコメント欄にご記入の上、お送りください。余分な物資が送られて現地に迷惑がかからないようにするため、ご協力下さいますよう、よろしくお願いいたします。馬場中山支援募集中一覧

本日7日に仮設住宅の情報などが町の方から出されたとのこと。その前に、チームSAKEから提供した情報
(仮設住宅に関すること)を元に、みんなで話し合えたのは大きい。この地域(仮設でも)に残りたい世帯、すぐに仮設に入りたい(すこし遠くても)世帯などあり、馬場中山に予定されている仮設個数よりも、残りたい世帯の方が少なそうなのが分かったりして、いろいろな状況が確認できてからの仮設の状況発表なので混乱は避けられそうとのこと。

情報が役に立っていることがとても嬉しかった。

チームSAKE 5M みつはる

お伊勢浜の写真

岩井崎近くのお伊勢浜の震災前と震災後の写真を、現地在住の小野寺清人さんより頂きました。
小野寺さんいわく、「津波は全ての命を持って行ってしまった。海には何にもいない。岩にへばりついていた貝すら持って行ってしまった。」「お伊勢浜は遠浅で穏やかな海水浴場子供達には最後の海でした。自分は大人になってからも恥ずかしながら毎年毎年子供のように泳いでましたよ。是非是非このきれいなお伊勢浜をTeam鮭ブログにのせて下さいね。」とコメントを付けて送っていただきました。

岩井崎の西側に位置するお伊勢浜は、環境省「快水浴場百選」にも選定された遠浅の美しい海水浴場です。夏には多くの家族連れや若者で賑わっています。
お伊勢浜、岩井崎周辺には、冬になるとセグロカモメ、シノリガモなど様々な冬鳥が北国から飛来してきます。特に天然記念物に指定されているコクガンの国内でも数少ない越冬地でもあります。
※参考情報気仙沼市公式WEBサイト

以下小野寺さん撮影写真。とてもきれいな海水浴場でした。




以下、津波後の写真。




team SAKE 足立
追加編集 みつはる

5月7日 5M 岩井崎 3度目

わかめ養殖家Hさん宅を3度目の訪問。歓迎してくれた。
裏山が瓦礫の集積場となっており、第4陣できたときよりもたくさん積み上げられていた。


ちょうど訪ねてこられた親戚のOさん夫婦に出会う。
この夫婦の旦那Oさんは、近くの海水浴場の前で車の会社を経営していたが、津波で流された。
地震のときは工場の2階に上がれば津波は免れると思っていたが、揺れがあまりに大きいため、子どもの通う学校が心配になり確認に行ったが、すでに子どもは他場所に避難していた後だった。その帰りに津波を見て、急いでUターンし、そのまま車で逃げた。逃げる途中、道端には歩いている人がいたが、助ける余裕がなかった。たぶん、あの人たちはさらわれただろう。
お酒を飲まないとやってられないとのこと。
津波前と津波後の海水浴場の写真を撮影しておられ、ぜひブログなどで紹介して欲しいといってくれた。サケメールに送っていただいた。(内部リンク)

わかめ養殖家Hさんは、「今度は夏休みに来い。家は泊まれるからよー。」と言ってくれた。
半島の先端にある横綱像(地元出身の横綱を記念したもの)は、津波を受けても倒れず、そのまま残った。さすが強い横綱。ぜひ見て帰ったらよいよ。といってくれたので、帰りによることした。岬にたたずむ横綱像は、力強く、もの寂しく感じた。


チームSAKE 5M みつはる

5月7日 5M 鶴ヶ浦(三ノ浜) 鶴ヶ浦生活文化センター 再訪


数日前に電話で連絡したところ夏に向けて冷蔵庫が必要とのことで、避難所に前日購入した冷蔵庫を届けた。
冷凍庫はあったのだが、冷蔵品を間違って冷凍してしまいダメにしてしまったとか。
二人の女性が対応してくれた。

設置までして、1時間後に電源を入れる旨伝え、引き渡す。


避難所には気仙沼を巡回している、兵庫県の歯科医師会の方が3名いらっしゃった。
午後には内科の先生もこられるとの事。

欲しいものをお聞きすると、何個か返してくれた。
※支援して頂ける方は、必ず以下のページを確認しコメント欄にご記入の上、お送りください。余分な物資が送られて現地に迷惑がかからないようにするため、ご協力下さいますよう、よろしくお願いいたします。鶴ヶ浦支援募集中一覧

避難所には5年生の女の子が寝転がって、漫画を読んでいた。
歯科医師会の方が声をかけていたが、反応が薄かった。
この避難所には他の子どもがいないようで、遊び相手がいないとのこと。

遊び道具があれば、少しでも気が紛れるかもしれないと思った。

team SAKE 5M みつはる
編集 team SAKE 足立

5月7日 5M 鶴ヶ浦(三ノ浜)奥の個人宅 再訪

4陣がお世話になったおばあさんの家へ。

ご近所の3世帯にも来ていただき、調味料(サラダ油、つゆなど)やマスクなどが喜ばれた。
畑で使う女性用の長靴が欲しいとのことでしたので差し上げた。

お茶とお昼(ラーメン、煮物)をいただき、すっかりくつろぐ。
お手製の煮物はとってもおいしかった。
気仙沼ケーブルテレビに入っていたので、震災後テレビがまったく見られなくなった。
他の家で見られるところはあるが、この家は谷間にあるので電波が来ないとの事。
地デジ化が逆に震災で見られなくなる原因を作っているようで、微妙に感じた。

家が残っていても買い出しはとても大変。
車があればまだ良いのだが、集まったうちの数軒は車がない。
以前おばさんはバイクを使っていたが、現在はバイクで買い出しに行くのは、ガタガタ道で怖く、パンクするかもしれない不安もあるとのこと。

第4陣で撮影した写真を渡すとおばあさんに大変喜ばれた。
昔の話や津波の話をいっぱいしていただいた。
ひと時、会話できたことがとても嬉しい。
「孫のようだと思っている。また来てくんろう。」と手を握って送り出してくれた。


支援の仕方、支援先にもいろいろあることを考えた。

チームSAKE 5M みつはる

金曜日, 5月 6

チームサケの小渕浜での活動紹介記事(産経新聞)

産経新聞5月6日に、team SAKEの記事が掲載されました。

ウェブ上でも「MSN産経ニュース」において、閲覧することができます。
↓こちらは写真付きです。

■母と一緒に流されれば…悩み続けた夫婦、ボランティアの熱意で再起


team SAKE はるか

~~~以下掲載記事~~~

母と一緒に流されれば…悩み続けた夫婦、ボランティアの熱意で再起
2011.5.6 15:27 配信

 助かってよかったのか。そう責め続けた日々を出会いが変えてくれた。東日本大震災で寝たきりの母を津波にさらわれた宮城県石巻市の佐々木茂則さん(58)と妻の巳代子さん(58)。現実を受け止められずにいた心を、ボランティアが突き動かした。夫妻は今、「復興で恩返しがしたい」という。

 夫妻が暮らす石巻市小渕浜地区は小さな漁師町。巳代子さんは地震発生時、港に近い自宅の別棟で寝たきりの義母、かめのさん(89)の介護中だった。家具が横倒しになり車いすが見つからない中、濁流が流れ込んだ。かめのさんの手をにぎったが、水位は上昇して天井へ。波がいったん引いたとき、かめのさんに脈はなかったという。窓から抜け出した後、第2波が襲った。かめのさんは今も行方不明だ。

 そのころ茂則さんは漁船の上にいた。揺れが来れば沖を目指すのがこの辺りの漁師。無残な港に戻ったのは一昼夜の後だった。

 夫妻は助かったが、悩み続けた。自分も一緒に流されていれば。自分が家に戻っていれば。

 4月中旬、京都で有志らが立ち上げた支援グループ「Team SAKE(鮭)」の三枝剛さん(37)に出会った。まきを作るためのチェーンソーを届けてくれ、茂則さんが経営していた水産加工場のヘドロをはき出し、がれきの撤去も手伝ってくれた。

 かめのさんの話も黙って聞いてくれた。「お母さん(巳代子さん)が助かってよかった」と言ってくれたとき、救われたような気持ちになれた。

 巳代子さんは「元には戻らないが、何かしないと。ここに住む意味がない」と話す。茂則さんも同じ気持ちだ。「恩をこの場で返さなきゃ。どこにも行かね。また来てくれ」(宝田良平)

5月6日 5M 気仙沼市内

気仙沼市内で内陸に近い方は、だいぶ落ち着きを取り戻しているようだった。
4陣の時にまだまだ泥など残っていたところでも、きれいに片付けられているところが増えていた。

一方で、海岸地域や南気仙沼は、未だに通行止めの箇所などがあり、瓦礫もまだまだ残っていた。


気仙沼市内のケーズ電気で避難所に届ける旨を話して、価格を割り引いてもらって、展示品の冷蔵庫を購入。

第4陣でお世話になった気仙沼南郷の溶接職人のおじさんの家へ、挨拶だけして分かれようとすると、気仙沼ホルモンがおいしいという情報をお聞きし、気仙沼ホルモンの食べられるお店へ。(もちろん自己負担です。)
気仙沼国道バイパスから見えた気仙沼ホルモンのお店「きらく」に入る。おばさんに、注文を聞かれるが、お品書きがわからず戸惑う。ホルモン定食をお願いすると、ちょっと遅くなるよといわれた。お客は地元の方が多そうで、よそ者は歓迎されていないのでは?とドキドキした。
外に駐車してあった車とボランティアの表示をご主人が見られたようで、ご主人から「京都からこられたんですか?ありがとうございます。」と声をかけられた。
食事をした後、会計を支払うと、お店で食事をされていた周りの方と、奥さんとご主人から、「よく来てくれた、がんばってくんろ。」と声をかけられ握手を求められながら店を後にした。

県外から来たボランティアに対して、好意的に受け取ってくれているようだった。

team SAKE みつはる、かわた、ひで、にしむら
編集 team SAKE 足立

5月6日 5M 唐桑 舞根(もうね)

この地区では残った家が6件。そのうちの一番目立ちいかにも孤立していそうな一軒を訪ねる。
山作業で上の方にいたのだが、わざわざ降りてきて対応してくれた。
「ボランティアが最近よく来てくれる。唐桑ではコミュニティーがしっかりしている上、RQという災害ボランティア団体も拠点を置いて活動しているので、この地域は支援が行き届いている。そのような団体と連携する方がよいのではないか。一軒一軒回るのは非効率ではないかな?」と言われた。
訪れた家は、かきの養殖で有名な家で、弟さんがRQの立ち上げにかかわっているとおっしゃっていました。

確かに、こちらのお家は足りていそうだ。しかし、非効率の中に、SAKEが目指す顔の見える支援があるのではないかと思い、一応、他の残っている家の情報をお聞きし、老夫婦が残られていると聞いた家へ向かう。

挨拶をして中から出てきた男性に話を聞くと、調味料などはありがたいとおっしゃってくれたので、必要な調味料をお渡しした。「こうやってきてくれるのがありがたい。お願いしたいボランティアなどがあるとすると、ちょうど下の家が、夜にあらされたりしたので、夜の警備などをやってもらえるとありがたいのだが、、、。」とおっしゃっていた。

この地域でも調味料などが役に立ちそうなことがわかったものの、明日行く次の避難所へ届ける冷蔵庫の買出しができる時間が迫ってきたので、後ろ髪を引かれながらも他の家には回らず、舞根(もうね)を後にし、気仙沼市内へ向かった。

team SAKE みつはる、かわた、ひで、にしむら

5月6日 5M 小原木中学校 再訪

いろいろとやり取りをさせていただいている小原木中学校へ。
野球部の中学生のお母さんに直接お話をきいた。
現在被災した野球部員が5人いて練習着などが流された。
部活動をするのに練習着などをいただけるとありがたいとの事。
スパイクなどは、まだ確認していないので、確認できたら連絡をさせてもらいたいとの事だった。
また、剣道部の高校生の息子もおり、道着、竹刀が流されてしまい、支援していただけるとありがたいと仰っていた。
※支援して頂ける方は、必ず以下のページを確認しコメント欄にご記入の上、お送りください。余分な物資が送られて現地に迷惑がかからないようにするため、ご協力下さいますよう、よろしくお願いいたします。小原木支援募集中一覧

避難所生活をしていても、個人的に必要なものをお願いするのは難しい雰囲気。
子どものことならお願いできるが、自分のこととなると気が引けてしまいそう。

どこまで支援できるか、課題はあるだろう。

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後日5月9日にHさんよりお電話いただきました。
野球のシューズのサイズなど若干詳細情報をいただきました。
また、「編み物の追加のお願いのやり取りをさせていただき、届いたのが連休前で、持っていなかったおばあちゃんも連休中に編み物をすることができ、大変喜んでいました。」とのこと。

team SAKE 5M みつはる
編集 team SAKE 足立

5月6日 5M 六ヶ浦 3度目


2陣と4陣で訪れた避難所へ。
水(500ml×96本)と調味料を少しお渡しした。
急な坂の上の方に避難所があるので、4箱持って上がるだけでも大変。
自衛隊の給水車が来て、水をもらっているとのことだが、日々の水を持って上がるだけでも大変だろう。
避難所で留守番をしていたおばさんにお話をきくと、山形の専門学校に行く子がおり、その子の送別会のときに4陣でお渡ししたお酒をふるまったとのこと。
避難所の副代表をしている方にお話をきくと、だいぶ落ち着いてきたとのこと。
家の一階に大工さんが入って修理をしているところだった。水道はしばらくつながる見込みはないとのこと。「また来いよ!」声をかけていただいた。
駐車場としてお借りした家の方とお話ができたが、2陣のときより少し元気のない様子だった。

その後4陣がとてもお世話になった男性の家へ。
留守だったため、お礼に手紙を添えて家の前に。


京都に帰ってきてから
「三陸に2度も来ていただきありがとうございました。」とわざわざお電話いただきました。
こちらこそ、ありがとうございました!

チームサケ 5M みつはる

5月6日 5M 綾里 田浜上 再訪

4陣で訪れたおばあさんの家へ再訪。
おばあさんは病院へ行って留守。お会いできなくて残念だったが、お嫁さんが対応してくれた。

自分の家は無事だったが、近所では流れて来た家がぶつかって壊れたお宅もある。
ご主人は沖で底引き網の漁をしているが、瓦礫が混ざっていて大変とのこと。
水道が来ていないのでお湯をわかすために外で洗い物をしているが、夜は真っ暗で怖い。
お風呂は中学校の近くの親戚の家を借りて入らせてもらっているとのこと。

同じく4陣で訪れたおじさんが避難されている避難所へ再訪。
避難所を管理されている方の奥さんと唯一避難しているおじさんに調味料など喜ばれた。
洗濯は川の水でされているとのこと。

まだまだ水道が来る気配がない。

team SAKE 5Mみつはる
編集 team SAKE 足立

5月6日 5M 小石浜(恋し浜)

4陣でお会いした漁師の二人のうち一人の男性の家を訪ねる。
いらっしゃったので、あいさつをしてお話を聞いた。
午後にボランティアのダイバーが海の中のがれきの撤去の手伝いしてくれるとのこと。
町中は木片の処分は終わったが、鉄などの燃えない瓦礫はまだ処理が終わっていないとのこと。

team SAKE 5Mみつはる

5月6日 5T組 小渕浜でのこと

小渕浜の佐々木社長の事務所掃除をメンバー四人で行った。
社長の奥さんに震災前の事務所の机やロッカーの配置図を描いてもらった。
事務所は作業場の二階にあり、そこにたどり着くまでの階段や通路の瓦礫やヘドロの撤去は、数日前に行なっていた。
事務所の中は、津波の被害でメチャクチャになっていた。



床や天井が下から押し上げられた格好にズレていて、天井の隅に書類が挟まっていた。
ロッカーやソファーが机の上に乗り上がっていたり、ひっくり返ったりしていた。
瓦礫やヘドロに混じって書類や商品に貼るシールが散乱していた。
「今日中にここを整理出来るのだろうか?」と不安になるほどの酷い有様だった。
先ずは、ありとあらゆる所に堆積している瓦礫等を撤去していった。
ロッカーの中や引き出しの中も泥だらけで、何十個ものゴミ袋が一杯になった。
ある引き出しからは佐々木社長の船舶免許が出てきて、後でお渡しすると、大変喜ばれた。
昼からは渡された元の配置図を基に備品の配置を行った。
事務をするスペースと打ち合わせをするスペースはパーティションで仕切られていて、当時の実用的な事務所の姿が伺えた。
床を磨くとかなり綺麗になり、様子を見に来てくださった佐々木社長からは「おー、明日からでも仕事が始められそうだなぁ!ありがとう。」と大変感謝された。
今日の作業は、社長の奥さんのお願いで行うことになったもの。






社長は毎日、他の漁師さん達と港と海の整備に忙しい。






なので、1人で事務所の片付けをなんとかしようと思っていたそうだ。
しかし、1人で動かすには重すぎる物も多く、困っておられたようだ。
「なにかこのままじゃ悔しいの。」と想いの内を語ってくださった。
綺麗になった事務所の床を見て「昔のいろんな想い出が甦ってきます。いろいろあったから。」と嬉しそうに微笑んでおられた。

掃除後、既に用意して頂いていたお風呂をいただき、早めの夕食を大量にごちそうになった。
本当に大量で、そのおかげで少し太ったほどだ。
六日間深くおつきあいさせて頂いたので、去る時とても寂しかった。
社長も「寂しくなるな。」と一言。
「また帰ってきます。」と5T組一同。
熱い握手をしてから、京都に向けて出発した。



5T組エノキ、つよし

木曜日, 5月 5

5月5日 5M 千歳(せんざい)でのこと

 千歳(せんざい)の集落へ

千歳の集落に入ると、急峻な坂に集落があり、家はあまり被害を受けている様子がない。
下のほうに行くと更地になっている場所が2箇所あり、その下には被害を受けた施設の屋根が見えた。
海岸沿いまで行き、Uターンして地図を見直すと千歳コミュニティ消防センターを見つけたので、そこへ移動。
消防センターには2名ほどちょうど荷物を取りにこられていた消防団員だと思われる若い男性に声をかけると、物資の集積所になっているとの事。
この集落では全壊が2軒のみで、すでに空き家などに移られているとか。
津波当時は、コミュニティセンターの横の公民館が避難所になっていたが今は解散していると話してくれた。直接その2軒を訪問したい旨話すと場所を教えてくれた。


場所をお聞きし、1軒目でお伺いしたのは、Mさん宅。
老夫婦が出てきてくれて、差し入れを持ってきた旨話すと、ありがたいありがたいと、持ってきたものをいろいろ見て必要なものを一箱もらってくれた。
さっきまで東京から子どもが来ていて帰ったばかりだったとのこと。
ぜひ、お茶でもとおっしゃっていただき、家の中へ。
掘りごたつにコーヒーとお菓子をいっぱい出してくれ、全部もらい物だけど、食べてけろとのこと。
おばあさんは事あるごとに涙目になりながらも何もあげるもの、お土産がない。もらうばっかりで申し訳ない。お菓子いっぱい食べて、お茶飲んでけろ。と、いっぱいもてなしてくれた。


今までわかめとかきの養殖の仕事で一年中働きづめだったが、津波があり、何もしなくなって、まるで夢の中にいるようだとのこと。
おじいさんは舟で沖に出て1晩すごした。地震の最中は船の上にいても舟が飛び跳ねるほどの地震だった。
家ごとすべてをさらっていってしまった津波。

もう一軒の家へ行くと若い女性が出てきた。集落の人に助けられて、生活ができているとの事。差し入れの物品の中から必要な調味料などを選んでもらい、お分けすることができた。

team SAKE 5Mみつはる

5月5日 5M 尾崎白浜 再訪

尾崎白浜の旧尾崎小学校を再訪。
4陣で歓迎してくれた男性の1人が対応してくれたが会長は不在だった。
いったん、調味料など足りているとおっしゃったが、女性の調理担当を呼んできてくれた。

その女性とお話しすると、細かいものは欲しいとの事。
ごま油や練りからし、おろししょうがなどがとても喜ばれた。
山菜の時期でからしあえなどが食べたいといっている方がいたとのこと。
このような物資の隙間の調味料はなかなか来ないのでとてもありがたい。
ごま油などは、物資の要望で言いづらいのでありがたいとの事。

5月5日 5M 花露辺(けろべ)でのこと

次に訪れたのは、花露辺(けろべ)。
集落の入り口に避難所らしい建物があり、人の気配がないので、集落の中へ進んで行く。


おじいさんと出会い、差し入れを持ってきた旨を話すと、すぐ横の家が自治会長の家とのこと。
話をするならその家にとのことで、訪ねると不在だった。
会長の家は、すぐ横の下まで津波が来たようで、一軒海側の家は一階が浸水した様子。
片付けている方がいた。
声をかけ、差し入れの話をすると、集落の入り口の花露辺漁村センターに誰かいるだろうとのこと。
一番奥の津波の被害の大きい海辺でUターンをし、一番高台にある花露辺漁村センターへ引き返す。

花露辺漁村センターに着き、中へ向け声をかけたが、やはり不在だった。
避難所で使っていたようで、手作りの仮設のトイレが女性用・男性用と2箇所ずつ選挙用の看板の再利用材などで作られていた。
選挙ポスターを貼ったまま加工してあるのが見える。
柱には、トイレを作った棟梁の名前と日付が書かれていた。一級建築士、、、。


この地域での接触をあきらめかけていたところセンターのすぐ下で畑作業をされているご婦人を見つけ、声をかけることにした。

話を聞くと、現在調味料などは足りており、避難所は解散したとのこと。
支援していただけるものがあれば、センターに置いていっていただければ配りますよと言ってくれた。
集落自体は70世帯ぐらいで150名ぐらいおられるとか。
用意してる調味料の量を考えるととても中途半端なので、次回機会があれば支援したい旨伝えた。
昨日、上の花露辺漁村センターに天道はるみ(よしみか?)さんがこられて、歌をみんなで聞いたとの事。
京都のお菓子をお渡し、挨拶をして次に行こうとするとコーヒーでも飲んでいってけろとのこと。

もう少しお話を聞きたかったので、遠慮しながらもご自宅へ伺わせていただいた。
暖かい掘りごたつとコーヒーの提供を受けて、T子さんのお話を聞く。
ヒデくんは、掘りごたつ初体験。
T子さんは、女性陣で動けるメンバーの中で最年長であったことと、センターのすぐ近くの家であり、旦那さんが副会長であったこともあり、避難所生活での食事手配の中心人物であったとの事。


毎食、ご飯を3升炊いていた。
この辺の漁師は、ご飯でないとだめ。
パンはおやつとしてコーヒーを飲みながらつまむものという感覚。

毎朝3時におきて準備にかかり、夜は8時までやって、次の日3時という繰り返しで、よく寝られなかった。
みんな協力して、震災当初は、T子さん宅にあった米60kgを提供。
集落のみんなもあるものを持ってきてやりくりした。
花露辺漁村センターは昔、地域の結婚式などをしていたので、大鍋があったり、食器が100セットぐらいあったので、炊き出しなどスムーズにできた。
最初のうちは、おにぎりを握っていたが、大きさや硬さがまちまちだったりしたので、ある時期から食器もあることだしそのまま茶碗に出すことにした。
茶碗があり、おつゆとおかずを出すことができて、避難所とは思えないようだった。
避難所生活では、ご飯作りでとても忙しく寝る間もなかったが、みんなで協力し、とても楽しかった。
今でも一緒に避難していた方と話すと、避難所のご飯が家のご飯よりおいしかったととても感謝され嬉しかった。
食事は物資でもらったものを工夫していろんなものを作った。
昔のおやつ代わりに食べていたうどんバット(おしるこにうどんの入ったもの)は、昔の若い人に喜ばれた。
最後の日は、ジャガイモを丸いまま茹で、塩をまぶしたものをつくり、昔の若い人に喜ばれた。

ガスは、下の流された家などから持ってきてセンターですぐ使うことができた。
水道は、集落に技術者がいたので、津波の被害であいたままになっていた下のほうの水道を閉めることができたのですぐ使えることができた。
ただし、センターは電気がないと使えなかったので、すぐ下の消防詰め所からホースで水を引き、流しっぱなしにして使った。
消防の人が内陸のほうから発電機を借りてきてセンターに設置したので、エアコンが使うことができるようになり、センターは暖かく風邪を引く人はいなかった。
電気は4月の3日ぐらいに復旧した。
電気は復旧しても電話はなかなか復旧しなかった。
津波当日は、固定電話も携帯もまったく使えなかった。

釜石の缶詰工場から消防団のメンバーが行って缶詰の提供を受けもらってきた。
テレビは地デジ対応したせいか、見ることができなくなった。
みんな現在はパラボラアンテナをつけて衛星放送を見ているが、地元の情報の映るテレビが見られない。
東京の情報ばかり。
隣の本郷では技術者がいて線をちょっと変えてアナログにして見られるようにしているらしい。

一軒、灯油でお風呂が使える家があり、みんなで順番に入ることができたが、8時まで働いているとはいるのがなかなか難しかった。暗い夜道を移動するのも怖かったこともあり。
毎日お風呂に入っていた生活から、入らない生活になっても慣れるものだ。

明治の津波で被害があったので、上のほうに家を立て、下のほうは作業場が多かったが、上のほうの家まで流されるとはとても思っていなかった。
津波のときは遠くに見える堤防まで水が引き、海底が見えたのがあり、そのおかげでほぼ全員が逃げることができたが、一人寝たきりの方が犠牲になった。
津波は本郷の方の防波堤にあたった波が方向を変えて渦を巻いてこちらに押し寄せてきたせいで、端の家も大きな被害を受けた。
津波は壁のようにやってくるのではなく、這うように押し寄せてきた。

高台からみんな集落を見ていたが、家や船がのまれるのを見ると自分の物でなくても涙が出てきて泣いた。
被害を受けて残った家を取り壊すときも涙が出てきた。

冬の寒い時期にわかめやかきの養殖で苦労して作った財産が流され、もって行かれてしまった。
集落で3艘舟が残こり2艘は無事で、1艘が底に穴が開いていたが、モーターは使えたので、水をかき出しながら青森の修理場まで乗っていったとのこと。

今は、若い人たちは会社勤めが多い。
漁師は高齢の人が多い。
漁には夫婦で出なくてはならず、若い人で漁師になっている人は独り者の跡継ぎぐらい。

もともとこの集落は団結力がつよく、喧嘩や地区対抗運動会などでも団結していた地域。
他の地域に聞くと団結力が強いというので有名だろう。
昔は運動会でもリレーなどで走っている他の地域の人が集落の陣地の前を通るとき足を引っ掛け転ばすぐらいだった。

来年からの生活がとても心配。
当分海の仕事はできないだろう。
漁師は70才ぐらいで引退する人が多く、80才でやっている人は少ない。
数年経ったら引退する人が多いだろう。

2・3年後、あわびやかきが採れたら、また来て下さいとのこと。
帰り際、出かけていた旦那さんが帰ってこられた。
お酒はだんなさんは飲まれないようだったが、奥さんと娘さんが飲むとの事で、京都の地酒をお渡しした。
ちょうど昼食時期で、一緒にどうぞと言われたが、旦那さんと少し話したかったが、さすがに遠慮をさせていただき、花露辺を後にした。

5月5日 5M 3度目の本郷でのこと

深夜より、大き目な余震を体験し、2ヶ月近く経とうとしている今もまだまだ震災後の余震が続いていることを実感する。
昨夜の反省、手続きをしてから活動開始。
昨夜、買出しし切れなかった男性用サンダルを仕入れ、3度目の本郷へ。
本郷に着くと、昨日と異なり、男性陣が消防詰め所におり、会長のKさんは各戸を訪問していて話を聞いている最中ということで不在。

昨日の奥様方を呼んでいただくと、再訪を喜んでくれ、リクエストの品の一部をお渡しすることができた。昨日の話が広まったおかげか、パソコンとプリンターが私も欲しいという女性も現れ、追加でもう1セットリクエストをいただいた。

5月5日 5T組 狐崎浜、船越でのこと

狐崎浜訪問
午前中に、狐崎浜に野菜を届けました。
Aさんに電話で担当の方に連絡していただいたので、その方にお渡しすることができました。
「遠い所からわざわざありがとうございました」と感謝されました。
その後、区長さんを探して地区対策本部や港を周りました。
区長さんにお会いし、26世帯分の野菜を置かせてもらったことをお伝えしたところ、難しい顔をされました。
お話を伺ってゆくうちに、その理由が明らかになりました。
狐崎浜は確かに26世帯100人だけども、対策本部は周辺の他の浜と合同で設置していて、全体で300人いる。
支援物資はそこで配分されていて、一部の地区だけが独自に支援を受けているのは問題があるそうです。
実際に以前にそのようなことがあり、本部から指摘されたこともあるとおっしゃっていました。
支援するなら対策本部とやってほしいと言われました。
現状については、電気はあるが、水道はまだ。
震災後2ヶ月が経とうとしており、支援物資が減ってきている。
おむすびと水ぐらいになってきている。
本部に申請しているがなかなか通らない。
車がある者もいて、町に買いだしにいくこともできるが、漁ができない(宮城県が5月末まで禁止している)ので、収入がない。
明日まで日本財団のボランティアが入っていて、港の片付けをしてくれている。
食料が少ない状況もあり、住民の方には喜ばれたが、本部との調整をしながら住民の苦情を聞いている区長さんは板挟みで苦悩は深いようでした。
「支援するなら本部とやってほしい」とはっきり言われた。

5月5日昼からは、船越集落に今回の滞在中3日連続で4回目になる訪問しました。
三陣で訪れて気になっていた集落です。
やっとリーダーと出会うことができてお話を聞かせて頂きました。

雄勝町の船越集落の中里さんのお話。
5月5日、1時半から2時半までお話をうかがう。
船越集落では26人が集落に戻っていて電気が10日に復旧する予定。
水道は復旧していないが、湧き水があり煮沸して飲み水として使っているので不自由はない。
中里さん宅をはじめ、まわりの家屋は津波から免れたため、津波後は20人程が中里さん宅に寝泊まりして生活をしていた。
その後の数日は、中里さん宅周辺の家屋も使用し、5人ずつぐらいに別れて生活をしていた。
道が通ったため買い物に行ける状況であり、食料の調達には困っていない(そのため持ってきた食材は渡していない)。
中里さんは、漁師であり船の写真を見せてくれるという話になり、家の中でお話を伺うことになった。
中里さんはサケ獲りを主とした漁師であり、その他にも季節により色々なものを獲っている。
集落では、牡蠣、ホタテ、ワカメの養殖や、6月にアナゴ、冬にたこ、ウニ、アワビなどが獲れ、豊かな漁場となっている。
集落には百隻を超える船があったが、全部の船を津波で失った。
集落の航空写真をもとに津波前後の様子を教えてもらった。



津波発生時、中里さんは高台から様子を見ており、漁協センターの建物の屋根から海水が吹き上がった状態に驚いたとのこと。
中里さんも船が三艘すべて流された。
家の全壊は100万円の補償があるが、中里さんにとって家よりも大事な船の損失に関する補償はなく、憤りを感じているようであった。
船がないと、仕事が再開できないため、船大工がいればボランティアでも有料でもいいので来ていただきたいとのこと。
他には漁具を回収や片付けなどの作業を手伝ってほしいとのこと。
また、福島の原発についてもとても心配しているとのことです。
一部の地域が漁を再開させるからと焦って漁業を再開するのではなく、地域の漁業の足並みをそろえてゆっくりスタートさせたいという想いがある。
今回の地震で本当にたくさんの人から支援をいただき感謝していることを伝えたいとおっしゃっていた。
最後に、お土産としてカジキマグロの角と、ガラスのウキ玉をいただいた。
カジキマグロの角は大切な物ですからと何回もお断りしましたが、team SAKEのシンボルにしてはどうかと薦めていただき、最後にありがたく頂きました。
この地域は海が豊かで漁師として食べていくのに困らず本当に過ごしやすいが、若者が少ないため是非来てほしいとの言葉は、中里さんのこの地域に対する愛着が感じられてとても印象的であった。

5T組 つよし、エノキ、むとう、739

水曜日, 5月 4

5Aからの短い報告。ヘドロからも緑が。

京都に戻っている最中の5A組足立さんからの報告です。

昨日は船越半島小谷鳥・漉磯(すくいそ)・瑞然寺・釜石市室浜、
今日は箱崎半島内(箱崎・桑ノ浜・箱崎白浜・仮宿)、仙翁寺を回りました。

後で詳しい報告があると思いますが、町で津波に遭い故郷の限界集落に戻ってきた方や、自宅があった場所を震災後初めて訪れた方など様々な人にお会いしました。

一日近くAM合同チームを組んだおかげで、箱崎では瓦礫撤去、荷物整理、物資支援など数ヶ所でいろいろ行えました。
自転車も活用しました。
(1陣で自転車で物資を届けた自転車部のメンバーが今回も自転車を活用しました。)

室浜や仙翁寺は未だ非常に厳しい状況にあると実感しました。

1ヶ月前と一番違う印象は、少しずつ緑が戻って来ていることです。
ヘドロからも、植物が生えてきています。

報告:チームサケA組 足立大
編集・投稿:京都組 はるか

5T組5月4日小渕浜での作業

ロブさん達(第四陣お迎え組の時からお互いに協力しています。)や高校生のボランティア団体、地元の方々など約60人で水路の泥かきをしました。
重機も導入され、昼には開通。
重機の威力はすごい。
地元の漁師さんがおっしゃられるには、この地区の排水はすべてここを通って海に流れているそうです。


午後は瓦礫を撤去して道を作りました。瓦、漁具、シャッター、ホース、植木、原付バイクなど様々な物が絡まり合っていてみんなで悪戦苦闘しました。
何も言わなくても初対面のボランティアどうしが協力しあい、大きな物を撤去させたりしていました。
大工さんが持ってきておられた大ノコギリやツルベが大活躍でした。

これだけの人手をかけて1日中作業をしても、見渡す限りの瓦礫野原の中では出来たことが余りに小さく、津波被害の大きさと復興までに過かる時間の途方もなさを改めて実感しました。
そんな中でも、地元の方々は復興に向けて一歩ずつ歩み始めておられ、その姿に、こちらが逆に力をもらっていると感じました。
地元の皆さんと支援団体がお互いに力をもらい合いながら、復興にむけて力をあわせてゆけたらいいなと思いました。


午前中につよしは、小渕浜の社長宅に洗濯機と冷蔵庫を買い出しに石巻の町に一人で出かけました。
一人になり運転していたら、涙がこみあげてきた。
凄まじい津波の被害の現実。
何度見てもなれない。
心が折れそうになる自分がいる。
その中でチームサケとしては五度目の訪問で地元の方と信頼関係ができ、つながりが深まりとても喜んで頂いていること。
寝食を共にしたおかげで、距離がグンと縮まった。
社長も奥さん(最近はみんなお母さんと呼んでいます。)も、何度も心からの感謝を伝えてくれました。
必ず復興させて、最初に採れたワカメを皆さんに送りたいと。
私達を歓迎して、完成したてのお風呂にいれていただき(スパツナミと名ずけたらしい)、食べきれないほどの美味しい手料理を頂き、暖かい寝床まで用意して頂きました。
私達も、本当にお世話になりありがとうございますと心から感謝を伝えました。
このつながりが力になり、自分を支えてくれている。
自分が出来る事は小さいが、出来る限り頑張って少しでも役にたってから帰りたいと思った。



前日に生活に関してお話をお伺いしていると、お母さんは、冷蔵庫も洗濯機もあると便利だけど贅沢は言えないからと、遠慮しておられました。

復興に向けて力強い一歩を踏みだした一家を応援したくて、5T組全員一致の判断で買いにいきました。
とても喜んで頂き、こちらも嬉しかったです。
午後からは、瓦礫を撤去して道を作る作業に合流。


夜には、石巻市内でメンバー交代がありました。
5Aは京都へ、5Tは引き続き牡鹿半島の小渕浜をベースに残ります。
5Tは、エノキ、つよし、なみきゅー、武藤になりました、
心機一転新しいメンバーで残りの二日を頑張ります。


夜遅い時間に牡鹿半島の小渕浜災害対策本部の向かいにある駐車場に到着。
凄い星空のもとでテントを張り就寝です。
近くから鹿の鳴き声やカエルの合唱が聞こえます。
武藤君は初めてのテント泊でした。


team SAKE つよし、エノキ

仙翁寺(せんのうじ)でのこと

5月4日 気仙沼市 仙翁寺(せんのうじ)

 夕方近くに到着。TBSテレビの取材クルーや「スリランカからの恩返し」という横断幕をはった大型車が来ている。庭では子供たちが歌いながらフラフープで遊んでいる。なみきゅーと西尾も知っている歌で、子供たちと一緒に歌う。女の子に頼むと、自作の歌詞カードを見せてくれた。ボランティアの「遊ぶ隊」が教えてくれたという。子供たちの笑顔に、周りの大人にも笑顔がうかんでいる。

 本部では前回もお会いした男性とお話する(鮭のことはおぼえていない)。まだ250人がこのお寺で暮らしているとのこと。先日水道が通ったところ。枕も届いた。仮設住宅の予約が始まったが、実際にはいれるのは来月になるだろうと。普段は自分たちで食事を作っているが、今日は炊き出しの「スリランカカレー」。炊き出しに使っていただけるようにと、調味料一式とお酒、消耗品をお渡しする。本部の前の張り紙では、ペインクリニックの開設や、沖縄民謡コンサートの開催を知らせる張り紙がある。様々な支援が入りつつも、避難生活が長引いている事実に、胸がいたくなる。

寺から石巻に向かう途中、瓦礫の中に水仙の花が咲いている。一ヶ月前に来たときは茶色一色だった風景に、緑が生まれている。復興へ向けて、ゆっくりでもいい、確実な変化を願いつつ、被災地を後にした。

5月4日 5M組 本郷 再訪

・釜石市唐丹町本郷
本郷地区コミュニティー消防センター
避難所。仮設住宅や県営アパートに移った人も多く、現在は16名が生活している。集落自体は169軒の内の50軒が流された。
訪ねた日はGWのため多くの人は出かけていた。地区長のKさんと女性2人が対応してくれた。みなさん家が流されているので、石鹸や歯ブラシといった
日用品や、避難所では自炊をしているため調味料を必要とされていた。
支援物資は届くが、細かいものは希望しても届きにくいので、ごま油、チューブのからし、にんにく、しょうが、青じそドレッシングなどが喜ばれた。
お話をしながら欲しいものをお伺いすると、アイロン、パソコン、プリンター、自転車、女性用スニーカー、男性用サンダル、サイズが大きい人用(4L)のジャージなどをリクエストしていただいた。
特にサイズが大きいものは物資では届きにくいので必要とのこと。
地区長のKさんは、地区の仕事をするためにパソコン、プリンターがあれば、非常に助かるとのこと。
※支援して頂ける方は、必ず以下のページを確認しコメント欄にご記入の上、お送りください。余分な物資が送られて現地に迷惑がかからないようにするため、ご協力下さいますよう、よろしくお願いいたします。本郷支援募集中一覧


・その後リクエストされたものを買出しに釜石市内へ。
大きいサイズのものを衣料品店等で探したがなかった。
店員に尋ねると、大きいサイズの専門店に行かないとないだろうとのこと。
ガツン
本日の活動終了。

team SAKE 5M みつはる、かわた、ひで、にしむら
編集 team SAKE 足立

5月4日 5M組 大石でのこと

・釜石市唐丹町大石

旧小学校が避難所になっていて、50人程が避難している。消防団の詰め所が物資の分配センターになっていて、そこの消防団の男性に話を聞いた。
集落自体100人程いるが、幸いなことに犠牲者はゼロ。地震当日消防団が中心となり、一番下の港まで下りて避難を呼びかけた。
元々斜面になっている集落のため、明治昭和の津波では家屋の損壊はなかったが、今回は数件の家が被害を受けた。
当日の様子も写真を撮影されており、克明に記録されていた。
その男性の舟はまっぷたつに壊れてもう使えない。写真の横に、「長い間ありがとう」と書かれていた。

少ししか壊れていない舟は満潮時に流される可能性があるため、高台の旧小学校に陸揚げされている。舟の修理のために船大工が欲しいとのこと。
電気は3週間以上来なかった。水道は2月の下旬に新たに埋設工事を行ったため、震災で被害を受けることがなく、その後も水は使えた。
ガスはプロパンが使えた。

5M みつはる、かわた、ひで、にしむら

釜石市内の食堂でのこと

 釜石市内の食堂のご主人に話を聞いた。

 まだ周囲の店は開いていないので、店は工事関係や地元の人でにぎわっている。夜の仕込み分も昼時で終わってしまうほど忙しいという。幸いのところ、店に津波の被害はなかった。店の前を被災者が通るので、震災二日後からお茶を無料で配りはじめた。孫くらいの子どももお茶を飲みにくるので哀れに感じ、それから炊き出しも。給食用の肉の在庫を使ってカレーやトン汁を作った。電気やガスもないので、燃料は炭、カセットコンロで。


 震災直後の様子や、これからのことを話される。

 携帯の緊急地震速報が来てすぐに地震が来た。その後の津波情報は3メートルで、皆なめており、避難しない人も多かった。だが、(ご主人は)チリ地震の経験から、これだけ大きな揺れならば津波が来るだろうと思って避難した。少し高台に住んでいた知人は、嫁が逃げようと訴えるにもかかわらず、「大丈夫」と逃げず流されてしまった。一人で逃げた嫁だけが助かった。第一波より第二波が大きく、スーパー堤防が二波目でくずれたのが高台から見えた。一波目の後で戻った人(通帳などをとりに戻った)は巻き込まれてしまった。

 震災後は防災無線が機能せず、情報が入ってこなかった。家族と連絡がとれたのは5日後。もう身内はだめだろうと観念していた。遺体を引き取りにいったが、身内でもわからないほどの状態。洗濯機に入ったような感じで衣服もやぶれている。
まだ余震が多い。震度5にもなれた。防波堤がないので、次に大きい地震がきたら終わりだろう。
 震災のことを話し始めると、止まらない様子で話される。身内を多くなくされながらも、炊き出しをはじめ、復興に向けて働くご主人の様子に頭が下がる思いがした。ご主人の作るヒレカツ定食は、元肉屋さんというだけあり、やわらかくて絶品。多くの人を元気づけていることと思う。

teamSAKE 5A

5月4日 箱崎半島 桑ノ浜でのこと

5月4日


 桑ノ浜へ。Mさん宅に伺い、奥さんとお話する。自己紹介をすると「ああ、鮭ね」と思い出してくださる。避難状況は変わらず。地域の人と一緒にご飯を作り、食べている。足りない調味料は、と伺うとお酢とおっしゃる。お酢、八ッ橋、お酒、黒豆、バリカン、子供用鉛筆をお渡しする。電気は来たそう。遠野から美容師のボランティアが来て上を切ってもらったとのこと。海を眺めながら「(海の)仕事ができないからねえ・・・」とつぶやくようにおっしゃる。

 もし人手が必要な作業があれば、と申し出ると「それじゃあ聞いてくっぺか」と腰をあげ、近所のMさん宅へ。「奥さん、ボランティアの人が来てるって。何か手伝ってもらうっぺか。この人たち、何遍も来てくれるんだ。」と紹介してくださる。老夫婦が二人、家の片付けをしている最中。「それじゃあ金庫を運ぶのを手伝ってもらうっぺか」と。重いので二人では運べない。「午後までここにいると疲れる」と奥さん。急遽、西山家で作業している男性陣(西村・なみきゅう・武藤)を足立が呼びに行く。

 西尾は残って作業を手伝う。散らかった部屋の中で「もう私、何をしていいのかわからない」と奥さんはおろおろされている。「私がきれいにしていたのに、こんなになってしまって」と嘆かれ、涙目で押し入れを整理。「これはいらない、これもいらない・・・」。

 段ボールの箱を作ったり、食器を片付けたりするうちに、段々とお話をされる。震災後は5日くらい孤立して、ヘリで救助されて大変だったこと。台所や居間は無事だったが、下の部屋にあったものはすべて津波に持って行かれたこと。現在は避難所(釜石高校)で生活し、今後仮設に移る予定とのこと。電気も来ず薄暗い部屋の中での作業は気がめいってくるが、「ここはへんぴなところでしょう、だから買いおきがいっぱいあるのよ」と、はじめて笑顔が出る。妹を始め、家をすべて持って行かれた近所の方々に分けてあげたいと、台所用品などを大量に梱包される。奥さん自身はお茶やお花が趣味で「今はPCに夢中。ようやく油にのってきたってところだったのに・・・」と。

 震災で暮らしが激変し、先が見えない不安を感じておられることをひしひしと感じた。

team SAKE 5A ゆうゆ

5月4日 5M組 箱崎半島(箱崎・白浜・仮宿)でのこと

5M組です。
遅くなりましたが5月4日の詳細な報告です。
気仙沼はイーモバイルが使える!

20110504_5M&A
☆作業チーム
・釜石市箱崎 西山家

 午前中西山家にて3人が中心となり作業。
 前日に引き続き瓦礫の撤去。
 木がはえていると(りんご畑?)そこまでは、重機も入れないので撤去してもらえない様子。
 重機が入れるところまで瓦礫を撤去して移動する。
 連続して作業するのは大変なので、1時間作業して休憩という繰り返し。
 途中、桑の浜へ一瞬借り出され、とっても重たい金庫を移動して戻った。
 作業後、うどんと山菜のこごみをご馳走になる。とれたてのこごみはとってもおいしかった。

☆巡回チーム
・釜石市箱崎 仮宿
物資はわりと足りているとのこと。
ただ、調味料をもらえると嬉しい。とのこと。
必要な人に渡してくれるとのことで、調味料を選んで置いていくことにした。
連絡先を聞くと、固定電話は通じていなく、DOCOMOも集落内でも一部しかつながらないので丘に登ったりする必要があるとのこと。


Sさん宅。箱崎白浜
物資で服のサイズが合わず、欲しいモノがピンポイントで来ない。とのこと。
買物は釜石の方に言っている、普段は大槌の方に行っていたが、大槌にはなくなってしまったので、、、。

・釜石市箱崎 旧白浜小学校

 残っているの15人ぐらい。他の方は、釜石市の体育館へ移動した。
 残った15人は近所で仕事のある世帯。海岸での仕事や定置網などの仕事でここからの方が近いので残っているらしい。
 物資は自衛隊が頻繁に来ているので足りている。
 当初から、大阪の医療チームや大阪府警が来ていていた。
 神奈川県警は、最近巡回している。
 今日は男衆が山菜取りに山へ行っている。
 山も海もあっていいですねと伝えると、「最近、海でタコを取ってゆでて食べると、油臭くて食べられなかった。まだ、当分ダメだろう。まだあがってない人も居るので、、、、」
 お酒を渡すと、「みんな喜ぶ、ありがとう」と返してくれた。
 子どもたちは震災後、釜石市内の小学校に分かれて通っていて、それに伴い家族で釜石市内に移っていった。
 対応してくれたのはUさん


・釜石市箱崎 西山家被害地を挟んで東側のお宅(ヒデ単独by自転車)
ご夫婦がいらっしゃったのでお話を伺った。
「原発がある地域は原発被害のお金がおりて高額もらえるが、
この辺りはそれがないから少ない。
支援金を支給してもらうために罹災証明を取らないといけないが、手続きが面倒。
物資で送られる中に韓国産などが含まれ、食べるのが不安。」
調味料などが喜ばれた。


・釜石市箱崎 北東の沢の集落
 たずねていくとちょうど自衛隊の食材を配っているところだった。
 調味料など、持ってきた旨伝えると、広げた支援の差し入れに集まってくれて、必要なものをもらって行ってくれた。

 現在15件ぐらい残っているところに、親戚つてに避難してきた世帯含めて25世帯ぐらいがいる。
 水道がつながっていないので、自衛隊が給水車で水を持ってきてくれている。朝給水すると、夕方には無くなり、次の日の朝は、水を汲みに来たが空で帰った人もいたとか。
困っているようだったので、私たちの物資の中から水を1ケース置いて帰ることにした。
サケの活動を紹介すると、一人の女性が「洋裁の仕事をしていたが、ミシンが浸水で壊れたため新しいのが欲しい。家庭用のものでもあれば支援物資をみんなのサイズに合わせて直せる」とのこと。
その物資配給の拠点となっているお宅のすぐ隣の家で、火事が発生。(地震と津波では残ったのに。)
釜石から他県(大阪?)の消防車が来てくれたが、道もわからず大変だった。水は海からひいた。

5月4日 5T組 小渕浜でのこと

5T組5月4日小渕浜での作業

ロブさん達(IDRO Japan、国際災害支援団日本の方々。第四陣お迎え組の時からお互いに協力しています。)や高校生のボランティア団体、地元の方々など約60人で水路の泥かきをしました。
重機も導入され、昼には開通。
重機の威力はすごい。
地元の漁師さんがおっしゃられるには、この地区の排水はすべてここを通って海に流れているそうです。



午後は海沿いの瓦礫撤去と、瓦礫を撤去して道を作りました。
瓦、漁具、シャッター、ホース、植木、原付バイクなど様々な物が絡まり合っていてみんなで悪戦苦闘しました。
何も言わなくても初対面のボランティアどうしが協力しあい、大きな物を撤去させたりしていました。
大工さんが持ってきておられた大ノコギリやツルベが大活躍でした。

これだけの人手をかけて1日中作業をしても、見渡す限りの瓦礫野原の中では出来たことが余りに小さく、津波被害の大きさと復興までに過かる時間の途方もなさを改めて実感しました。
そんな中でも、地元の方々は復興に向けて一歩ずつ歩み始めておられ、その姿に、こちらが逆に力をもらっていると感じました。
地元の皆さんと支援団体がお互いに力をもらい合いながら、復興にむけて力をあわせてゆけたらいいなと思いました。

午前中につよしは、小渕浜の社長宅に洗濯機と冷蔵庫を買い出しに石巻の町に出かけました。
1人になり運転していたら、涙がこみあげてきた。
凄まじい津波の被害の現実。
何度見てもなれない。
心が折れそうになる自分がいる。
そんな中でチームサケとしては5度目の訪問で信頼関係ができ、つながりが深まりとても喜んで頂いていること。
寝食を共にしたおかげで、距離がグンと縮まった。
社長も奥さん(最近はみんなお母さんと呼んでいます。)も、何度も心からの感謝を伝えてくれました。
必ず復興させて、最初に採れたワカメを皆さんに送りたいと。
私達を歓迎して、完成したてのお風呂にいれていただき(スパツナミと名ずけたらしい)、食べきれないほどの美味しい手料理を頂き、暖かい寝床まで用意して頂きました。
私達も、本当にお世話になりありがとうございますと心から感謝を伝えました。
このつながりが力になり、自分を支えてくれている。
津波の被害の大きさに対して自分が出来る事は小さいが、出来る限り頑張って少しでも役にたってから帰りたいと思った。

前日に生活に関してお話をお伺いしていると、お母さんは、冷蔵庫も洗濯機もあると便利だけど贅沢は言えないからと、遠慮しておられました。
復興に向けて力強い一歩を踏みだした一家を応援したくて、5T組全員一致の判断でその二つを買いにいきました。
津波の後の洗い物のし過ぎで手首を痛めてしまったお母さんには、二層式洗濯機が役立つことでしょう。
水が貴重な現在では、二層式洗濯機を求める方が多いそうです。
とても喜んで頂き、こちらも嬉しかったです。
午後からは、瓦礫を撤去して道を作る作業に合流。



夜には、石巻市内でメンバー交代がありました。
5Aは京都へ、5Tは引き続き牡鹿半島の小渕浜をベースに残ります。
5T組は、エノキ、つよし、なみきゅー、武藤になりました、
心機一転新しいメンバーで残りの2日を頑張ります。

夜遅い時間に牡鹿半島の小渕浜災害対策本部の向かいにある駐車場に到着。
凄い星空のもとでテントを張り就寝です。
近くから鹿の鳴き声やカエルの合唱が聞こえます。
武藤君は初めてのテント泊でした。

5T組、つよし、エノキ

火曜日, 5月 3

5月3日 5M組 箱崎半島 西山家避難所での作業等

4月2日(月)の晩に京都を出発した5M組です。
3人で交代で運転しながらまず箱崎半島を目指しました。

前回、4陣が訪れたときに、震災から1カ月以上もたっているのに、毛布など物資が全く足りていなかった西山家避難所です。
ブログ上で、緊急支援を求めたところ、全国からたくさんの支援物資が届き、西山家に避難されているみなさんから、本当にありがとうございます。とのお言葉を預かっています。
ご協力いただき、ありがとうございました。

以下、西山家避難所に向かった5M組の報告です。

5月3日、東北道に入るまでは順調に来たが、東北道に入った途端に道が凸凹になる部分が増えたからか交通量が増え一部渋滞。パーキングはごった返し近寄れない。
さらに仙台を越えると今度は事故渋滞。車の台数が多いのでちょっとした事故でも数キロの渋滞になってしまう。さすがゴールデンウィーク。

11時半頃に西山家に到着。西山さんに挨拶をすると、お陰様であのあと物資もいろいろと届いて助かったとのこと。関東から娘夫婦が今日来て、宮城から息子家族も来ているとのこと。サケのメンバーには大変お世話になったんだよと息子さんに紹介してくれた。ゴールデンウィークのため、娘さん夫婦と子供が帰ってきていてにぎやかな様子。周囲もゴールデンウィークのため、外出していたり、子どもさんが帰ってきたりしているとのこと。


事前に連絡を入れて聞いていた通り、畑の瓦礫の撤去がありがたいとのこと。
夜通し移動した疲れた体だが、西山さんに要らぬ心配をかけぬよう、疲れを気づかれないようにテキパキ作業支度に取りかかる。
作業支度中に西山家周辺を回っていたボランティアのおじさんと会い、話しかけられた。
箱崎は275戸のうち、津波で残ったのは45戸とのこと。京都や大阪から来た旨話すと、自分は箱崎出身で、警察犬の関係のボランティアで、現在自衛隊の不明者の捜索に同行している。
京都や大阪から来てくれて、君たちのように手伝ってくれているのを避難所のみんなに見せたい。とおっしゃっていました。遠くから来てくれて嬉しい。とのこと。

周囲では自衛隊や支援の車により、家屋やがれきの撤去が進んでいた。また、子どもの日が近いこともあり、こいのぼりが飾られていた(箱崎だけでなく様々な場所で見られた)。
作業支度が終わり、その後、西山家の畑に流れてきたがれきを重機が入れるところまでの運搬作業にとりかかる。

畑の上の方から片付ける事にし、畑の上の方へ行くと風で飛んできたと思われる軽めの発泡スチロールやビール袋などが散乱。ごみ袋も使い回収してまわる。
とげのある低い木も多く、とげの木の茂みのゴミは取りにくかった。

1時間作業し、昼食準備に入ろうとすると、西山さんから昼食の準備ができたとのこと。ありがたくご馳走になってしまった。代わりに酒、京都のお菓子を差し入れしたところ喜ばれた。
(※team SAKEの活動について初めて知られる方は、team SAKEとはをご覧ください。私たちは、小集落で活動する中で、一方的な支援よりも、時にはこちらがお世話になり、互いにありがとう。を言い合う関係であることが大切であると考えるようになりました。)

食事休憩。辺りを見渡すと自衛隊が家の解体作業と瓦礫の撤去をしている。
解体される自分の家を見守る人もいれば解体された自宅の瓦礫の中からモノを探している人もいる。
ゴールデンウィークの休みで関東から実家に帰ってきた夫婦と話した。「この光景をみて何からして良いのかわからず、何もできていない。」と。

その後16時頃まで作業を行った。午後からは西山さんに一輪車を借りて作業の高速化を目指す。
畑の端の境界まで瓦礫を移せば自衛隊が片付けてくれるだろうとのこと。
リンゴ畑は木があり重機が入れないので、境界までは瓦礫を移動しておく必要がありそう。
境界近くへ行くと、家の瓦礫がわんさか畑にある。太い木材の瓦礫。重たいコンクリート瓦、畳、家財などなど。どこから手をつければよいのか?一つずつ。少しずつ。瓦礫がいっぱいで一輪車も使いづらく手作業で3人で広い集める。3人でもなかなか進まない。

少しして、道になる部分を片付けるのを先にしようと一人が発案。瓦礫を横に寄せて道を一本通した。
すると一輪車がとても使いやすくなり一輪車に瓦礫を乗せ片付け効率アップ。そういえば、自衛隊もどこてもまず道を復旧させていたことを思い出す。


しかし、思っている以上に体力を消耗する(3人とも寝てない)とともに、柱や水分を含んだ畳など1人で運べないものも多く作業はなかなか進まなかった。
一区画片付き、16時になったので本日の肉体作業は終了。
箱崎で他の家の方とお話をするために出かける。
箱崎の東側に残っている家群へ。近くにいた奥さん数人に話すと基本的に物資は足りているとのこと。
車の中を見せると、鍋、胡椒2、などがほしいとのこと。
それぞれ渡して地区長さんなどに話を聞く。
調味料はじめ食材は間に合っているとのこと。
「よく来てくれた。全国からいろいろ来てくれて、励みになっている。よく来てくれた。」
お酒を渡すととても喜ばれた。

Aチームに合流するため、明日また来る旨を西山家に挨拶すると、「夕食をご一緒にと思っていた」とのこと。
西山家のご一家とゆっくり話せる機会を逃した残念さで後ろ髪引かれながら移動。
Aチームに合流。
荷物の積み替え、食事に移動。

報告:5M★川手光春★
編集:京都組はるか

片岸町 室浜(むろはま)でのこと

釜石市 片岸町 室浜(むろはま)

 集落全体が壊滅的な被害を受けた地域。道端で休んでいる2人(Aさん、Bさん)に声をかけると以前この地域に住んでいた方だった。お話をしていると、ある奥さん(Cさん)もやってこられた。Cさんは被災後、初めての訪問だという。あまりの惨状にショックを受けている様子。


 現在の状況は、Aさん:避難所生活、Bさんは長男の家に避難、Cさんは仮説住宅が決まるまでの一時的な部屋を借りた直後とのこと。震災直後は皆、同じ避難所にいたとのこと。
調味料、生活雑貨をお渡しして、非常に喜んでいただけた。洗濯ばさみや鍋ややかん、衣料品なども喜んでいただき、そんなに物資が行き届いていないのかとこちらが驚くほど。
3人それぞれ、被災直後の生々しい体験をお話された。

 Cさんの話
地震後、貴重品や食料を車に積んで逃げたが、波が来た。車から出て、高台にある神社へ向かうが、高齢の母親と一緒で、早く逃げられない。お堂の裏で足元まで水が来る。もうダメと思ったが、周囲の人から「がんばれ!」と励まされた。そのうちに足下から水が引いていった。避難した神社の裏山にも山火事がせまった(大槌町のほうから火事がまわってきた)ので波が引いたあと、瓦礫の中を逃げた。

 Aさんの話
高齢の方3人を連れて逃げなければならなかったため、多くの人が逃げた谷沿いではなく、近くの高台へ逃げた。そのおかげで助かったのだと思う。谷沿いに奥へ逃げた方は犠牲になった。

 ABCさん、口々に話された話。
谷の両側の高台神社がある。その夜は「おーい、おーい」と、お互いに声をかけあった。最初はもう涙もでない、震えしかなかった。最近になってようやく、こうして人の親切のありがたさを感じる時に涙が出るようになった。震災直後の食事は、ラップにもつつまれていない小さなおにぎり一つだった。一週間同じ靴下を履いていた。女性でも男性用の下着を使うしかなかった。今までどれだけ贅沢していたかを感じた。
普段買物をしている大槌町は壊滅状態なので買物ができない。自分の家もないのでお金もない。最近やっとローソンが再開した。

 最も被害が大きい地域の一つで直接に被害にあわれた方々からお話を聞き、3月11日を境に、何もかもが変わってしまったことを痛々しく感じる。季節はかわるが、時計の針はどこかで止まったまま。がれきの山に向かって、手を合わせる。残された者に何ができるのか、問い続けることになるのだと思う。

team SAKE 5A

田ノ浜 瑞然寺(ずいねんじ)でのこと

5月3日

○田ノ浜 瑞然寺(ずいねんじ)
来客中でお話はあまりできなかったが、チーム鮭と名乗ると「前回は八ッ橋をおいていってくれたね」と思い出してくださる。様子を少しうかがうと、避難していた方は檀家の関係の家などへ散らばり、避難所としての機能は解散。だが、食事時は今も皆で集まり、食べているとのこと。差し入れに調味料・酒などをお渡しした。

team SAKE 5A

船越半島 漉磯(すくいそ)でのこと

 漉磯(すくいそ) Aさん宅

 椎茸栽培の盛んな山の山頂近くに一つだけある家をおたずねすると「まさかここまでくるとは」と驚かれつつ、喜んでくださる。「ゴールデンウィークで関東から娘がきていたが、昨日帰って少し落ち着いたところ。今までは必要なものを聞かれても落ち着いて考えらない状態だった。これからそろそろ、先のことをゆっくり考えたい」と。腹巻帽子をお渡しすると、「暖かくなってもかぶりたい」と笑顔に。元々この土地で育ったが、子どもの通学のため山田町中心部に住んでいた。被災して家を流され、実家に戻ってきたそう。「戻ってくる、ということになっていたのかなぁ」と遠い目をされる。

 調味料や下着などをお渡しした後、日の当たる庭で桃の花を眺めながらお茶をごちそうになる。「被災者同士でどちらが被害が大きいか比べてしまう。協力しなくてはいけないのに狭い中で比較してしまい、突き抜けることができない。外から見てみたい。」と話される。

 「お年寄りは昔の教訓で助かった人が多いが、若い人には伝わっておらず犠牲者が多かったんじゃないか」。地震も津波も自然災害が大きくなっているように感じている。関東で働く娘には、「どこにいても何があるかわらないから、どこに逃げたらいいのか、高い所を確認しておくように」と言い聞かせたそう。「ここはいいところでしょう。もし関西でなにかあったときには、ここに来たらいいわよ」と。



 山田町はしいたけとまつたけが自慢。日本一だと思っている。もっと上手に周知ができればと思っている。これから、苦手だけれどインターネットを始めようかな、それを今年の目標にしようかな、とおっしゃる。
 のどかな山の上のこと、まさかここまでは被害が及んでいないだろうと予想した上での訪問だった。だが、思いがけず被災者の方と出会いお話することができた。「被災者」と一口にいっても、様々なケースがあること、ゆえに様々な支援の形があることを知り、山田町を後にする。

team SAKE 5A ゆうゆ

船越半島 小谷鳥でのこと

5月3日 船越半島 小谷鳥 Kさん宅


 お宅を訪れたのは9時前。第四陣とKさんの記念写真をお見せすると笑顔に。「よってって」というお言葉に甘えて、薪ストーブがあたたかく燃える部屋で炬燵にあたらせてもらいながらお話をする。薪ストーブの横にはしいたけが乾かされていた。

 K家はうに、あわび漁やわかめの養殖を生業にしていた。今年はわかめも良作、あと一週間で収穫という時に地震がきた。

 今朝は5時半に起床したが、よく眠れなかったという。内陸に住む娘から一緒に住もうと言われているが、津波の被害を見に行ったきり帰ってこない夫や息子が見つからないので、ここを離れるかどうか・・・・悩んでいる。200年以上続いた先祖代々の家。ご先祖様のこと、夫や息子のことを思うと、と揺れる胸中を話される。この家はしっかりしていて、地震でもあまり揺れない、とも。Kさんは宮古からここに嫁に来て50年以上がたつ。煤で黒くなった部屋を、孫たちは黒い黒いという。冬には年配の方がここに集まっておしゃべりをしていたそう。だが、その方たちもだいぶ流されてしまった。

 話の途中で「まっこ」という犬が部屋の中に上がってこようとする。「あの犬はここの犬ですか」と聞くと、首をふり、今日東京に行く予定で、迎えが来る、とおっしゃる。炬燵の上には病院の巡回バスの時刻表が。月一回病院に行き、検査を受けるそう。いつもは息子が山田病院に連れていってくれていた、と。

 長年連れ添った大切な人とのつながりをいっぺんに失い、さらにこれからも大きな暮らしの変化を余儀なくされることを思うと、言葉がでない。

 壁に貼られた海難救助の賞状について訊ねると、昭和51年、8月29日あわび漁をしていたKさん(夫とその父)がトドが崎沖でおぼれた人を救助したときのものとのこと。昔はヒジキ、ノリ、マツモを浜で拾ってきたりもしていたが、今はもうしない(マツモは緑色の海草の一種で、味噌汁にいれるとおいしいそう)。
うに漁について伺う。海からあげたうには、男女で工場で殻をむく。その作業は朝4時から8時ごろまでの時間帯に行う。5センチ以下の小さなうには海に返すという約束があるそう。

 話の途中で、夫の弟さんが山で山菜を取りに行くために立ち寄る。

 夫は9人兄弟だが、焼津に嫁いだ妹以外は被災した。"かまど”(分家の意)になった人が田の浜にいる。地震の後は田の浜から火があがってきた。
調味料、日用品、らっきょう、酒をお渡しすると、喜んでもらってくださる。「こんなに欲張りをして・・」とおっしゃる。一緒に写真を撮り、また手紙を書きますね、と言うと、「書いてね」と。

 K家を跡にし、大浦港へ。道すがら、杖をついて歩いているおじいさんに声をかけると、大浦港方面に行くとのこと、途中までご一緒することに。車中、明治の津波は大浦と小谷鳥間の鞍部近くまで波が来たこと、故に、水境(みずさかい)と地元では呼んでいると教えてくださる。私たちと出会ったことを「狐につつまれたような感じ」と、不思議がられる。遠慮をされて、結局目的地まで送ることは出来なかった。