5月2日(月)
岩手県宮古市北部中ノ浜
朝から船の修理をしているおじさんと話す。船大工でたくさん修理する船があるという。
現在、物資は足りている。人手が欲しいのは瓦礫の片付けということ。
岩手県宮古市北部中ノ浜
女遊戸(おなっぺ)という集落
前連絡員(部落長)のMさんと話す。
昭和の津波の教訓で家を一メートル上げていたから助かったとのこと。それでも家は一階が浸水。家族総出で片づけをして、ようやくきれいになったが、農作業は今年は無理だということ。幼少のころより祖父母から津波の怖さを教えられていた一人の女性が、みんなに声をかけたおかげで、神社に避難できたと奥さん。
また、連絡員さんが一人暮らしのお年寄りに声をかけ、地震後30分に津波が来たにもかかわらず集落に死傷者はなかった。津波の話から昭和36年の大火、家族 の歴史まで話が及ぶ。
松月(まっつき) (Sさん)
流された家はないが、作業場などは多くが失われた。津波当日は町に出かけており、家に帰ってきたら津波が家の前まで流れた跡がありびっくりしたとのこと。53年前に開拓した田畑が自分たちの代限りで終わってしまうと話される。だが、家の周りの畑を整理し、サトイモなどを植えられていた。堤防も、200本近くあった防潮林も役に立たず、津波がきたという。大工の息子さんや、消防団員の息子さん、農業のお父さんなど、家族総出で瓦礫の撤去を行っている。
日出島
高台にある家を除きほとんど家が残っていない。10人ほどが亡くなる。
重茂半島 太田浜
被災証明書をもらってきたというおじいさんと、冷蔵庫の修理をされているおじさんと話す。 家は助かったが、畑はめちゃめちゃ、裏山に駆け上って難を逃れた。
白浜
自衛隊の人が食事も持ってきてくれる。
鵜磯 (Nさん)
林業と漁業をされている。地域で支給されるので、物資は足りているが、仕事が問題。これからの地域を考えるとつらい。漁業は壊滅的。椎茸の最盛期には森林ボランティアが盛岡から入る。
上加村 (Kさん他)北地区公民館
現在、避難していた人は温泉に招待されていて、仮設住宅ができるまでそこで過ごす事に。公民館は地域の人の物資の集積所に。今は養殖中心で、漁業がこれからどうるのか。わかめを生協におろしているので、生協から支援がはいり、助かった。新潟から精神科医がくるなど、全国からボランティアがきてくれる。調味料や、編み物セット、腹巻帽子、長靴、手袋などを喜んでもらった。
姉吉
明治・昭和の津波でそれぞれ2、4人しか生き残らなかったが、その時の教訓を記した石 碑より上に家を建てた結果、今回流された家はない。
千鶏(ちけい) (Sさん)
35~50人の死者・行方不明者が出た南区。総代議長の佐藤さん。漁師で、ます、まぐろ、秋鮭、わかめの養殖を生業に。27のわかめ養殖者がいたが、続けるのは8軒のみ。自宅の倉庫で物資の仕分け作業をしている。作業用のゴム手袋、長靴、レインコートなどは喜んでもらえる。 (白浜、姉吉は物資を渡していない)
■今日のエッセンス
物資は足りているので、仕事や生活のことが気がかりになっている人が多く、そうしたことに 関わりのあるボランティアなら喜ばれる。
重茂半島全域に渡って集落の結びつきが強いと感じた。
team SAKE 5A ゆうゆ、河田、足立
編集 はるか
チームサケ:集落のための東日本大震災復興支援サイト
team SAKEは、人・モノ・技術・知識などを通じて、三陸のみなさんの「望み」が少しでも実現するよう動いています。
集落を訪問し、対話を通じてそれらの「望み」に触れながら、それを全国のみなさんと共有し、御協力いただきながら、形にしていくプロセスに関わっていこうと思います。
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