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木曜日, 5月 5

5月5日 5M 花露辺(けろべ)でのこと

次に訪れたのは、花露辺(けろべ)。
集落の入り口に避難所らしい建物があり、人の気配がないので、集落の中へ進んで行く。


おじいさんと出会い、差し入れを持ってきた旨を話すと、すぐ横の家が自治会長の家とのこと。
話をするならその家にとのことで、訪ねると不在だった。
会長の家は、すぐ横の下まで津波が来たようで、一軒海側の家は一階が浸水した様子。
片付けている方がいた。
声をかけ、差し入れの話をすると、集落の入り口の花露辺漁村センターに誰かいるだろうとのこと。
一番奥の津波の被害の大きい海辺でUターンをし、一番高台にある花露辺漁村センターへ引き返す。

花露辺漁村センターに着き、中へ向け声をかけたが、やはり不在だった。
避難所で使っていたようで、手作りの仮設のトイレが女性用・男性用と2箇所ずつ選挙用の看板の再利用材などで作られていた。
選挙ポスターを貼ったまま加工してあるのが見える。
柱には、トイレを作った棟梁の名前と日付が書かれていた。一級建築士、、、。


この地域での接触をあきらめかけていたところセンターのすぐ下で畑作業をされているご婦人を見つけ、声をかけることにした。

話を聞くと、現在調味料などは足りており、避難所は解散したとのこと。
支援していただけるものがあれば、センターに置いていっていただければ配りますよと言ってくれた。
集落自体は70世帯ぐらいで150名ぐらいおられるとか。
用意してる調味料の量を考えるととても中途半端なので、次回機会があれば支援したい旨伝えた。
昨日、上の花露辺漁村センターに天道はるみ(よしみか?)さんがこられて、歌をみんなで聞いたとの事。
京都のお菓子をお渡し、挨拶をして次に行こうとするとコーヒーでも飲んでいってけろとのこと。

もう少しお話を聞きたかったので、遠慮しながらもご自宅へ伺わせていただいた。
暖かい掘りごたつとコーヒーの提供を受けて、T子さんのお話を聞く。
ヒデくんは、掘りごたつ初体験。
T子さんは、女性陣で動けるメンバーの中で最年長であったことと、センターのすぐ近くの家であり、旦那さんが副会長であったこともあり、避難所生活での食事手配の中心人物であったとの事。


毎食、ご飯を3升炊いていた。
この辺の漁師は、ご飯でないとだめ。
パンはおやつとしてコーヒーを飲みながらつまむものという感覚。

毎朝3時におきて準備にかかり、夜は8時までやって、次の日3時という繰り返しで、よく寝られなかった。
みんな協力して、震災当初は、T子さん宅にあった米60kgを提供。
集落のみんなもあるものを持ってきてやりくりした。
花露辺漁村センターは昔、地域の結婚式などをしていたので、大鍋があったり、食器が100セットぐらいあったので、炊き出しなどスムーズにできた。
最初のうちは、おにぎりを握っていたが、大きさや硬さがまちまちだったりしたので、ある時期から食器もあることだしそのまま茶碗に出すことにした。
茶碗があり、おつゆとおかずを出すことができて、避難所とは思えないようだった。
避難所生活では、ご飯作りでとても忙しく寝る間もなかったが、みんなで協力し、とても楽しかった。
今でも一緒に避難していた方と話すと、避難所のご飯が家のご飯よりおいしかったととても感謝され嬉しかった。
食事は物資でもらったものを工夫していろんなものを作った。
昔のおやつ代わりに食べていたうどんバット(おしるこにうどんの入ったもの)は、昔の若い人に喜ばれた。
最後の日は、ジャガイモを丸いまま茹で、塩をまぶしたものをつくり、昔の若い人に喜ばれた。

ガスは、下の流された家などから持ってきてセンターですぐ使うことができた。
水道は、集落に技術者がいたので、津波の被害であいたままになっていた下のほうの水道を閉めることができたのですぐ使えることができた。
ただし、センターは電気がないと使えなかったので、すぐ下の消防詰め所からホースで水を引き、流しっぱなしにして使った。
消防の人が内陸のほうから発電機を借りてきてセンターに設置したので、エアコンが使うことができるようになり、センターは暖かく風邪を引く人はいなかった。
電気は4月の3日ぐらいに復旧した。
電気は復旧しても電話はなかなか復旧しなかった。
津波当日は、固定電話も携帯もまったく使えなかった。

釜石の缶詰工場から消防団のメンバーが行って缶詰の提供を受けもらってきた。
テレビは地デジ対応したせいか、見ることができなくなった。
みんな現在はパラボラアンテナをつけて衛星放送を見ているが、地元の情報の映るテレビが見られない。
東京の情報ばかり。
隣の本郷では技術者がいて線をちょっと変えてアナログにして見られるようにしているらしい。

一軒、灯油でお風呂が使える家があり、みんなで順番に入ることができたが、8時まで働いているとはいるのがなかなか難しかった。暗い夜道を移動するのも怖かったこともあり。
毎日お風呂に入っていた生活から、入らない生活になっても慣れるものだ。

明治の津波で被害があったので、上のほうに家を立て、下のほうは作業場が多かったが、上のほうの家まで流されるとはとても思っていなかった。
津波のときは遠くに見える堤防まで水が引き、海底が見えたのがあり、そのおかげでほぼ全員が逃げることができたが、一人寝たきりの方が犠牲になった。
津波は本郷の方の防波堤にあたった波が方向を変えて渦を巻いてこちらに押し寄せてきたせいで、端の家も大きな被害を受けた。
津波は壁のようにやってくるのではなく、這うように押し寄せてきた。

高台からみんな集落を見ていたが、家や船がのまれるのを見ると自分の物でなくても涙が出てきて泣いた。
被害を受けて残った家を取り壊すときも涙が出てきた。

冬の寒い時期にわかめやかきの養殖で苦労して作った財産が流され、もって行かれてしまった。
集落で3艘舟が残こり2艘は無事で、1艘が底に穴が開いていたが、モーターは使えたので、水をかき出しながら青森の修理場まで乗っていったとのこと。

今は、若い人たちは会社勤めが多い。
漁師は高齢の人が多い。
漁には夫婦で出なくてはならず、若い人で漁師になっている人は独り者の跡継ぎぐらい。

もともとこの集落は団結力がつよく、喧嘩や地区対抗運動会などでも団結していた地域。
他の地域に聞くと団結力が強いというので有名だろう。
昔は運動会でもリレーなどで走っている他の地域の人が集落の陣地の前を通るとき足を引っ掛け転ばすぐらいだった。

来年からの生活がとても心配。
当分海の仕事はできないだろう。
漁師は70才ぐらいで引退する人が多く、80才でやっている人は少ない。
数年経ったら引退する人が多いだろう。

2・3年後、あわびやかきが採れたら、また来て下さいとのこと。
帰り際、出かけていた旦那さんが帰ってこられた。
お酒はだんなさんは飲まれないようだったが、奥さんと娘さんが飲むとの事で、京都の地酒をお渡しした。
ちょうど昼食時期で、一緒にどうぞと言われたが、旦那さんと少し話したかったが、さすがに遠慮をさせていただき、花露辺を後にした。

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