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現在、被災地で必要としているヒト、技術、知識 ★募集中一覧

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木曜日, 6月 30

船越への寄付ありがとうございました。

船越への漁のための道具を買うために40万円の寄付を募集したところ、
なんと1日で集まりました!

ありがとうございました。

ちなみに、送るものは
こちらです

そして、船越のブログは
船越(宮城県石巻市雄勝半島)の復興への歩み

引き続き、 集落の望み をチェックしていただければ幸いです。

team SAKE はるか

水曜日, 6月 29

雄勝半島の船越集落が朝ズバッ!で特集される予定です。

チームサケで、継続的に支援に入っている 宮城県石巻市雄勝半島の船越 の方たちが番組で取り上げられる予定です。

本日 6月29日(水)8時前後 TBS みのもんたの朝ズバッ! という番組内です。

いつもニュースやブログでしか発信できていませんが、船越のみなさんのお顔や声、思いなどが きっと映されると思います。

船越のブログ 
船越(宮城県石巻市雄勝半島)復興への歩み

火曜日, 6月 28

名振と船越の記事(三陸河北新報)

三陸河北新報6月28日版に、名振と船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも閲覧することができます。

高台移転 市に要望

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


■高台移転 市に要望
2011.06.28
石巻市雄勝の名振・船越地区
住民が独自案「支援を」/


 東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた石巻市雄勝町の名振、船越の両地区は独自の復興計画案を作成し、27日、亀山紘市長に実現に向けて支援を要望した。雄勝では各地区の住民代表で組織する「雄勝地区東日本大震災復興まちづくり協議会」が市の復興計画に地元の意向を反映させようと、5月から会議を重ねてきたが、地区単位でも計画案を作成する動きが出てきた。

 名振、船越両地区は、設計や都市計画の専門家の助言を受け、高台への移転案をそれぞれ独自に作成。住民代表ら14人が市役所を訪れ、模型や資料を使って亀山市長に説明した。

 名振地区は、高台の畑を住宅地にする案を作成。移住を希望する29世帯が入る住宅を傾斜を生かして建設する考えで、地権者の了解も得た。

 住宅は2階建てで、世帯人数に合わせてメゾネットと長屋の2パターンを用意。屋根には雄勝スレートを使い、地場産業の振興を支援する。被災した旧住宅があった場所は漁業施設や作業場、倉庫などにする。

 地区会長の大和久男さん(56)は「最初は公営住宅にしてもらい、数年後に住民が買い上げるようにしてもらいたい」と協力を求めた。

 船越地区は、山を切り崩して出た土砂を船越小周辺の住宅街に入れて土盛りし、広い高台を確保した上で、住宅や寺を移転する案を主張。追波湾からの強風が吹き付ける峠崎に風力発電施設を設置し、船越・荒両地区で利用する案も提示した。

 住民代表の中里孝一さん(55)は「環境に優しい復興のモデルになれるよう、支援をお願いしたい」と訴えた。

 両地区は漁業が盛んな一方、高齢化が著しい。大和さんは「若い世代が住みたいと思うよう、イタリアの海辺の街並みのように、風土に合った美しい漁村をつくりたい。観光客が集う復興のモデル地区を目指したい」と張り切っている。

 まちづくり協議会は、7月上旬に全住民4300人を対象にしたアンケートを行う予定。雄勝地区での生活を続ける意向と、雄勝で生活するために必要な施設を調査し、委員が検討してきた計画案に反映させた上で、7月末までに市へ提案する方針だ。

金曜日, 6月 24

箱崎半島の記事(毎日新聞)

毎日新聞6月24日岩手版に、(御)箱崎半島の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

.東日本大震災:災害に強い御箱崎半島に 釜石4地区住民、共同で街づくり計画 /岩手

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:災害に強い御箱崎半島に 釜石4地区住民、共同で街づくり計画 /岩手


 壊滅的な被害を受けた釜石市の御箱崎半島にある4地区の住民が、共同で災害に強い半島を目指した街づくり計画を練り始めた。震災で市中心部につながる市道が寸断し地域が孤立したため、半島内の各地区を結ぶ道路建設などのプランが挙がっている。住民たちは「半島全体で意見を集約し、行政に要望していきたい」と意気込んでいる。

 「通信手段がなく、市と連絡が取れたのは被災3日後だった」

 「このままでは半島に人が戻ってこなくなる」

 6日、御箱崎半島の両石、根浜、箱崎、桑の浜の各地区の代表者ら約20人が釜石市内の中学校に集まった。震災後初めての顔合わせだったが、防災上の問題点を指摘する声が次々と上がった。

 御箱崎半島の両石湾では遡上(そじょう)高約19メートルの津波が襲った。約200人が亡くなり、各地区の漁場は全壊。海沿いを通る一本道の市道の一部が壊れ通行できなくなり、各地区は一時孤立した。市内有数の観光名所だった根浜海岸も、地盤沈下と防潮堤の崩壊で砂浜を失った。

 6日の会合を呼びかけたのは釜石市両石町の漁師、松本忠美さん(64)。両石町は3月から復興のための協議を続けてきたが、主産業である漁業の復活や津波に強い住宅地建設のためには半島全体で協力する必要があり、各地区の代表者に声をかけた。

 初会合では、災害時に避難路になる道路を半島の山間部に建設する計画に各地区が賛成した。避難生活をしている住民が早期に集団で地元に戻る方法の検討▽海水浴場を中心とした復興--などを求める声も上がった。松本さんは「4地区が街づくりを協議するのは初めてで不安はあったが、方向性は同じとわかった。今後も会合を重ね、意見を集約したい」と話した。【稲垣衆史】


毎日新聞 2011年6月24日 地方版

月曜日, 6月 20

箱崎の鯉のぼりの記事(毎日新聞)

毎日新聞6月20日岩手版に、Team SAKEでも募集を行った、箱崎の鯉のぼりの記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

東日本大震災:避難した人、帰ってコイ 釜石・旧箱崎小にこいのぼり280匹 /岩手

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:避難した人、帰ってコイ 釜石・旧箱崎小にこいのぼり280匹 /岩手

 ◇全国の思い伝わる


 ボランティアが全国から集めたこいのぼり約280匹が、釜石市箱崎町の旧箱崎小学校の屋上に揚げられ、元気良く空に舞った。

 約280軒の集落だった箱崎町は、津波で約9割が流された。多くの人は町外に避難し、現在70人程度しか残っていない。

 地元の漁師の西山晃弘さん(41)が、こいのぼりに「いなくなった住民に帰って来い」とのメッセージをこめて揚げようと発案。5月にボランティアで訪れた神奈川県海老名市の生花店経営、渡辺誠一さん(32)らがホームページの掲示板で無償提供を呼びかけて実現した。

 赤や青の色とりどりのこいのぼりの中には「埼玉の空を泳いでいた鯉(こい)が、北国の空を泳いで、皆さんの健康と町の復興を見守ってくれることを願います」などとメッセージが書かれたものも。学校の裏山から屋上にわたされたロープにつるされると、住民から歓声が上がった。

 西山さんは「沈んだ気持ちでいたが、全国のみなさんの思いが伝わり、元気が出た」と空を見上げていた。【山田尚弘】


毎日新聞 2011年6月20日 地方版

木曜日, 6月 16

第8陣 小原木(唐桑半島)

一方今晩は、気仙沼の小原木中避難所に足をのばしました。私は初でした。
(今日行った感覚では、私たちは小原木中避難所と言ってきたけれど、大沢という集落の方たちなんだなぁと。)

さて、私たちが避難所に入ると、マルティナさんの送っている編み物を女性の方たちが熱心にされていました!
みなさん、「仮設に入って落ち着いたら、京都さ行くからねー。それを考えるのが今の一番の楽しみ♪」と言っておられました。
「もしも編み物なかったら、一体この2ヶ月どうやって過ごしていただろう。どうなってたかわからない。この前、京都から先生(マルティナさん)がご家族で来られて、教室をしてくれたとき、楽しかったー。靴下を途中まで編んできてくれていて、かかとを編む練習をみんなでしたの。今、その続きをしているの。もうできあがった人もいるの。」口々に話されていました。

マルティナさんは、京都の手作り市に出店されています。そこで売るために、小原木中避難所のみなさんが仕上げた作品を買い取ることもしてくれます。

「だったらせっかくなので、みなさんからのメッセージを書いて入れたらどうでしょうか。」と、提案させていただきました。
「産地直送だ!」と盛り上がっていました。

とってもアットホームな感じで、しきりのついたてもなく、シャワーや洗濯機も、うまくシェアできているそうです。

子どもたちも異年齢の子たちで夕飯後に広い校庭で遊んでいて、自転車の補助輪なしで乗れるようになったり、いいニュースもあるようです。

これまで行ったこともない集落でも、チームサケの仲間が細かく報告してくれてるおかげで、なんだか知った気持ちでいます。みなさんの笑顔を見たとき、特別うれしくなりました。

8陣 team SAKE はるか

第8陣 船越(雄勝半島)

今回のメンバーは、はるかと足立と3陣で参加の伊東さんと高校2年生のれふちゃんの4人ですが、
京都のボラグループ IDRO Japan のロバートさん、アレックスさんの車に便乗させてもらって出発しました。

京都の大工のロバートさんは、前回船越に入り、小学校の割れた窓サッシを18枚持って京都に帰りました。今回はそれらのに全て新しいガラスを入れられ、持ち込まれるところでした。


今、船越小学校は、新しい窓ガラスが入り、そうでないところも、ロバートさんたちが瓦礫の中から窓の代わりとして使えるものを探し、はめられています。黒板などがはまっていて、とてもおしゃれに見えます。

あとは、(欲を言えば)畳などが敷き詰められればなぁと思います。
集落のみなさんが毎日遠くの避難所から通って、瓦礫撤去や浜の掃除、漁などをされていることを考えると、休める場所が集落内にできることはとても大切だと思うのです。

学校がきらいで行くことができずにいる京都のれふちゃんは、出発時は泣きはらした目をしていましたが、どんどん顔がイキイキしてきて、集落に入る度、みんなの人気を集めています。気づいたことを進んでしてくれるしっかり者で、ボランティアとしては抜群です。年齢は関係ないなと思いました。



15日
船越では、住民の集会が行われました。
朝は、私とれふちゃんはワカメの茎とり作業に混ぜてもらいました。
男性二人は持ち込んだパソコンと携帯プリンタで、資料づくりのお手伝い。
おっかぁたちは、れふちゃんの学校嫌いの話を聞いてくれて、「楽しいことをしたらいいから、ムリして行かなくてもいい。津波の後は本当にそう思うようになった。」と、おっしゃっていました。

私から見ると、津波の後、都会の高校生の登校拒否の相談を受けるなんて、集落の方たちにはないことだと思うのです。
なんだか、悩み相談を受けてるときのみなさんが、こっちの集落でもあっちの集落でも、普段と違うテンションに見えます。

さて、集落会議。
報道陣が多いせいか、みなさんはいつもの感じではないように見受けられました。
(前回は、私は最後列でビービー泣いていました・・・。人間のふかーいものを目の当たりにして、なんとも言えないものを感じたのでした。)
報道が復興の大きな足がかりになればと、つい期待してしまいます。

サケがつないだ建築士の方たちが、現状の立体模型を持ってきてくださいました。「これから船越のみなさんが将来像を構築していくための道具で、宝物じゃありません。切ったりはったり自由にして、話し合いを具体的にする一助としてくだされば幸いです。」と、おっしゃっていました。


つい、いきなりゴールを目指したくなりますが、考えては意見をもらい、また考えることが大事です。

建築士の方いわく、「プロも、平面だけで考えると大きく見誤ることが出てきます。だから必ず模型を作るんです。それに、最初のアイディアが最後の完成作になることはまずなく、何度も考え、模型にし、検討し、また模型にし・・・を繰り返すんです。だから、みなさんも話し合っては、専門家に見てもらい、金銭的な面や実現可能性などをアドバイスしてもらって、また検討するを繰り返してください。山は一度切り崩したら、元には戻せませんしね。」

漁師さんに通ずる部分もあるようで、うんうんとうなずいてらっしゃいました。

team SAKE はるか

水曜日, 6月 15

岩手日報6月15日版に、綾里田浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「岩手日報WebNews」において、閲覧することができます。

高台移転へ住民が組織 大船渡・綾里の田浜地区

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


高台移転へ住民が組織 大船渡・綾里の田浜地区


 東日本大震災で大きな津波被害を受けた大船渡市三陸町綾里の田浜地区の住民は高台移転を検討する住民組織「田浜震災復興委員会」を立ちあげた。集落単位で住民主導で動きだすのは県内に先駆けており、人口流出とコミュニティー崩壊への危機感が住民を駆り立てた。実現には行政支援が不可欠だが、国の対応が遅いことで「足止め」を食らう格好になりかねず「国はまどろっこしい」との声も上がる。

 田浜地区は63戸。同地区契約会の野村誠一会長によると、今回の津波で22戸が流され8人が亡くなった。同地区は明治三陸大津波や昭和三陸大津波でも大きな被害を受けた。

 惨状に住民は「このままでは地域がなくなる」と危機感を募らせた。6月に入り、役員が高台への集団移転について勉強会を開催。12日夜には一般住民も参加し、委員会を設立することで合意した。

 委員会では▽浸水地域は高台に移る▽コミュニティーを大事にする▽漁業がやりやすい環境▽家屋を流された人の経済負担を少なくする-などを考慮しながら方策を検討。具体化はこれからだが、田浜の海を望める山を削り、浸水地域の一部をかさ上げするアイデアを国の補助で実現したい考えだ。

 明治の津波で被害を免れた自宅が今回は全壊し、仮設住宅に住む漁業の男性(67)は「田浜は海からすぐ高い山がある。高台を切り開いて移転し、海の近くには加工場などを建てればいいのでは」と賛同する。住民の9割は漁業を営んでいる。

 市災害復興局の佐藤高広局長は「地域ごとに地形や特性は異なるので、住民との合意形成が必要。今後も相談していきたいが、国の動きも見ながら進めたい」と語る。

 浸水区域からの集団高台移転は県が復興基本計画の柱として示した「グランドデザイン」でも3パターンの一つとして位置付けられており、住民の考えは合致する。

 土地の買い上げや新たな宅地造成など、多額の行政支援が不可欠。しかし、国の方針、新たな補助制度もなかなか固まらない。

 野村会長は「国の動きを見ながら進めたいが、どうもまどろっこしい。早く手を打たないと、待ちきれず田浜を出て行く住民がいるかもしれない。コミュニティー崩壊を防ぐためにスピード感が重要だ」と訴える。

(2011/06/15)

火曜日, 6月 14

第8陣 馬場・中山(南三陸町歌津)

第8陣(足立・伊東・大関・山下)は、馬場・中山集落を訪れました。

ここは、3月に第1陣で最初に入った集落のひとつで、また「鮭」という名前をつけて頂いた所でもあり、Team SAKEにとっては特別な場所です。
第5陣までは毎回寄らせていただきましたが、その後1ヶ月以上の間ご無沙汰となっていました。その間も馬場中山生活センターホームページなどを通じて、復興の様子を見守らせて頂いておりました。

リーダーの阿部倉善さんは、町から派遣されてきた方への対応など、相変わらずお忙しそうでした。

一時は200人ほどの方が生活されていた馬場中山生活センター避難所ですが、現在残っておられるのは60人ほど。紆余曲折を経てようやく建設されることになった集落裏の高台の仮設住宅が、あと1週間ほどで入居可能になるそうです。それに伴い、ここの避難所もついに解散となります。

team SAKE 足立


以下、大関はるかの報告を載せます。


↓ここから~~~~~~~~~


6月14日
チームサケの名付け親の馬場中山集落では、ちょうど銀鮭を食べてるときに、「最近チームサケを見かけねぇな」って話してたら、向こうから歩いてやってきてびっくりした!と、言われました。


馬場中山は今は漁ができる状態にありません。瓦礫を片付けるのに町から手当てが出ますが、女の人たちは、ずっと集落全体を支えてきたけど、それで収入をもらえるわけではありません。時給300円でもいいからなんとか仕事なり手当てなりないかと、女性のリーダーのきくみさんはみんなのことを思って気をもんでおられました。
以前、このことをある記者に言ったら、紙に文章で書いてみたらと言われたけど、うまく言葉に書き起こせませんでした。

今、集落内で編み物教室などをして、みんなが輪になれる場を作ることを心がけています。家族を失ったまま見つからない方や、考え込んでしまう方も、編み物の輪は、少し気を紛らわすだろうと考えてらっしゃいます。
また、仮設住宅に移ってバラバラの生活が始まっても、生活センターに集まって、つながりを大事にしていきたい思いもあってのことです。

私は、どなたかにロゴ(やはり※虎次郎か?)を作ってもらって、馬場中山の女性たちが作ったものとわかるようなタグを付けて売ったらいいと思うと言いました。なにしろ、質は上等なんです。
4月上旬に伺った際、編み物をする余裕は一切ないとおっしゃってたきくみさんが印象的だったので、今こそお手伝いできればと思いました。デザイナーさん居ませんか~?

きっと浜で仕事ができれば、すごくかっこいいだろう女性たち、今日まで、すばらしい団結力と知恵で集落全部を支えて来られたのだから、浜に戻る日まで、なんとかがんばってほしいです。

きくみさんは、ケータイもめがねも免許証も財布も全てかえりみずに、生後3ヶ月のお孫さんだけを抱いて、津波から逃げ切り、みんなのことを考えて今日まで乗り切ってきました。いつも笑っておられて、こちらが元気をいただいています。

畑でとれたきゅうりやかぶらを漬けた物をいただきながら、お話を聞きました。
おいしかったです。


※虎次郎:馬場中山生活センターに住んでいる猫

team SAKE はるか

6/25(土)報告会をします。

■日 時:2011/6/25(土)13:00~
■場 所:akikan 京都市下京区 新町通り高辻北西角 ファミリーマート3F
■参加費:300円(会場使用料として)
■内 容:7,8陣での活動報告 特に船越の動きについて

月曜日, 6月 13

会計報告

多くの方々から活動資金のご寄付をいただき、ありがとうございます。
平成23年6月13日現在

現在寄付等合計 2,739,100円
延べ145名・団体の方にご寄付いただきました。


6月13日現在の支出確定分です。
活動費の一部は、
現時点では含まれておりません。
支援物資購入 1,182,970円
保険      15,400円
装備      189,796円
燃料      179,024円
活動資金    132,138円(交通費&仕入含む。前回報告より、支援物資購入等に割り振りあり)
合計    1,699,328円

【新着】「Teamsakeしんぶん」Vol1できました。

「Teamsakeしんぶん」Vol1(PDF:3.2Mb)


URLは以下の通り
https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B3hhTI5wPJdWMTc3N2Y1ODEtZjQxNS00MzA1LTlmZGEtMGViOWNhNzU2MmFh&hl=ja

今後不定期に発行予定です。

チームSAKE 川手真理子

土曜日, 6月 11

船越のおいしい昆布



船越で採れる昆布は、ねばりと甘みが強く、とろろ昆布向きです。
天然の昆布を刈り取って、天日乾燥させ、それを引いてとろろ昆布にするそうです。
豊かな漁場で年中さまざまな海産物が採れる船越ですが、髙橋照雄さんは、昆布漁一筋三代目のとろろ昆布を引く職人さんです。

前の津波の教訓で、荒地区は高台に家があったので、旬の時期に採った昆布は、全て津波を免れることができました。

とろろにする前の昆布は、出汁に使ってもおいしいですが、おやつにおしゃぶり昆布が抜群です。
京都の子どもたちは、すっかりこれにはまっています。噛めば噛むほどねろねろねばねば・・・
楽しいおやつで、いつまでも食べてます。

親たちも、(悲しく、悔しいことですが)福島の原発事故によって放射能が漏れている不安の中で子育てをすることになってしまい、今まで以上に昆布やワカメなど海藻を採らせてやりたいと考えています。

無添加でおいしい昆布、とろろ昆布は京都の以下のお店で購入が可能です。
また、おしゃぶり昆布は、準備が整い次第、お知らせいたします。

 楽天堂・豆料理クラブ 上京区下立売通七本松西入北側(アスニー近く)
      月曜~土曜:午後1―7時 定休日 日曜&祝日

 ダイシン食料品店 三条会商店街 三条大宮東入る南側 
am 8:30~pm 6:30ごろ 定休日 日曜日・祝日

金曜日, 6月 10

雄勝町船越産ワカメの販売が始まりました!

雄勝半島の船越集落では、宮城県内に先駆けて6月6日に天然ワカメの収穫を始めましたが、「津波に負けなかった!わーっかめ」という商品名で販売を始めました。


6月10日には石巻市役所雄勝支所前で販売を行い、多くの売り上げがあったそうです。
今後、販売箇所も増やしていく予定ですので、よろしくお願いいたします。

また、船越では雄勝半島特産の雄勝石(雄勝硯の原料)を屋根瓦に使った家屋が多かったのですが、津波による被災で、瓦礫の中にスレート屋根瓦が多く埋もれています。
日本最大の生産量を誇った雄勝硯の復活へ向け、まずはボランティアなどを通じたスレート石の回収・再利用へ向けた取り組みも始めていく予定です。



team SAKE 足立

木曜日, 6月 9

小渕浜の記事(毎日新聞・朝日新聞・テレビ朝日)

6月9日の毎日新聞宮城版・朝日新聞・テレビ朝日に、小渕浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」「Asahi.com」「テレ朝NEWS」において、閲覧することができます。

■毎日新聞:東日本大震災:石巻の小島清掃 カヌー愛好60人が参加 /宮城
■朝日新聞:カヌーでがれき撤去 スクリューなくすいすい(動画有り)
■テレビ朝日:【震災】「もう一度海に…」カヌーでがれき撤去(動画有り)

team SAKE 足立


~~~以下毎日新聞掲載記事~~~


東日本大震災:石巻の小島清掃 カヌー愛好60人が参加 /宮城


 石巻市牡鹿半島の小渕浜漁港内に浮かぶ小島で8日、全国のカヌー愛好者らが東日本大震災の大津波で打ち上げられた漁具やがれきを撤去するクリーンアップ作戦を展開した。

 清掃作業があったのは漁港岸壁から約30メートルの港内に浮かぶ小島。旧牡鹿町町史などによると、島には大型定置網「大謀網漁」の創始者と伝えられる鳥海弥三郎をまつった鳥海神社があり、地域住民から「鳥海(とのみ)様」と親しまれ、子どもたちも泳いで渡れる遊び場だった。

 今回の大津波で、流失家屋のがれきや漁網、養殖施設の残骸などが大量に打ち上げられ島の様子は一変。神社も流失した。

 クリーンアップ作戦は、実行委員会の鈴木匠会長が「子どもたちが安心して遊べる環境に」と、全国の仲間たちに呼びかけて実施された。

 この日は、北海道から沖縄までの全国各地のカヌー愛好者とその仲間たち約60人が参加。スクリューに漁網などが絡むため漁船では航行が困難な島周辺をカヌーやゴムボートを使って清掃した。実行委では12日まで、同漁港内のがれき撤去作業を続ける予定だ。【石川忠雄】


毎日新聞 2011年6月9日 地方版



~~~以下朝日新聞掲載記事~~~


カヌーでがれき撤去 スクリューなくすいすい

宮城2011年6月9日10時18分


宮城県石巻市小渕浜の漁港で8日、ボランティア約60人が集まり、カヌーで小島に散乱するがれきの撤去をした。

 岸から数十メートルの小島には、地元漁師が「漁業の神様」として「鳥海(とのみ)様」をまつり、年1回神事を行っていたが、社ごと津波に流された。地域に入っていたボランティアが漁師の鳥海様への思いを知り、清掃を決めた。海中にはがれきが残り、スクリュー付きでは航行が難しいため、カヌーでの作業となった。

 作業にあたったカヌーデイ実行委員会の鈴木匠さんは「漁師をやめようという人も多い中、もう一度海へ出るきっかけになれば」と話していた。(小川直樹)



~~~以下テレビ朝日掲載記事~~~


【震災】「もう一度海に…」カヌーでがれき撤去(06/09 11:52)


 宮城県の牡鹿半島で、津波で漁港に流れ込んできたがれきをカヌーを使って撤去する作業が行われています。

 がれきの撤去作業を行っているのは、全国から集まったカヌー愛好家やボランティアおよそ60人です。津波で流された網などがスクリューに絡んで船が航行できないため、がれきが手つかずのままになっていた牡鹿半島の小渕浜漁港で、カヌーやゴムボートを使って、海の中や地元の人たちが漁業の神様として祭る「小島」でがれきを回収しています。
 参加者:「地元の漁師がもう一度海に出るきっかけになれば」
 牡鹿半島でのカヌーを使ったがれきの撤去は今月12日まで続きます。

水曜日, 6月 8

第7陣で参加した大学生ボランティアの報告

みなさんこんにちは。

週末に戻って以来、ご報告ができておらずすみません。
今回は、主に船越という宮城県石巻市雄勝半島にある集落の支援に重きをおいて活動してきました。

船越の方から、未来像を描いてくれる人を紹介してほしい、という声を受け、サケブログで呼びかけたところ、数名の方から連絡を受けました。
その中で、京都の芸術系の大学生めぐちゃんが現地入りしてくれ、滞在中、小学校の中の瓦礫の撤去やお掃除などを手伝ったり、みなさんの未来像を描いたりしてくれました。
私が見ていた感じでは、船越のみなさんは、若いめぐちゃんの訪問自体をとても喜んでいたと思います。特におじさんたち。

彼女が感じたことを書いてくれましたので、以下に紹介させていただきます。
ここまで team SAKEはるか


ここから 第7陣 めぐ


~行ってみて感じたこと~
行って一番印象に残っているのは、現地の方がすごい元気な事と、景色です。

・現地の方
 私は現地の方が心痛められているのではないかと、かなり緊張して現地まで行きました。
 いざ現地まで行ってみると、現地の方々はみんなすごく元気で無理していないかと心配になったほどでした。
 「どうしてみなさんこんなにパワーがあるのでしょうか?」
 と聞いてみたところ、
 「こうやって生きている私たちがいつまでも落ち込んでいられない。みんなの前では明るく居たい。」
 と話してくださりました。
 更に、
 「心や体、しんどかったりしませんか?」
 と質問をしてみたところ、
 「みんなのこの明るさは元々持っているものだから、自然と出てしまう。」
 と話されていました。


 この時、現地の方に感心を受けましたし、みんな暗黙の了解的にマイナスな感情を表に出していないところに心配も覚えました。

 また私の住んでいるところは、隣の家の人とのお付き合いでさえままならないので、現地の方々の幅広い付き合い方がとても羨ましく思えました。
 もし私が住んでいる「お隣さんさえ頼れない町」が被災したら、みんなマイナスの心は閉じ込めておけないだろうと、そう感じました。

 支援しに行ってる私が元気をもらってしまって、頭で考えていたものとのギャップにやられました。

・景色
 私が先日行って、「うゎ・・・」って思ったということは、震災直後はどうだったんだろうと考えるだけでもぞっとします。
 何もかもなくなると言う事がどういう事なのか少しですが分かりました。
 実際自分は被災地を目の前にしてどういう事を思うのか分かりませんでした。


 行ってみて、心が空っぽになった感じです。「かわいそう」とか「大変そう」「悲しい」と言う感情は生まれないと思いました、あの景色をみて。
 あの景色は感情にさえも浸らせてくれませんでした。
 唯一「何で?」と言う言葉は出ました。「何でこうなってしまったのだろうか」と。
 毎日のように復旧作業が続いているし、状況は上向きなのでしょうが、あの自然豊かな土地や心の広い現地の方には似合わない大きな機械達が、トラックに乗せやすい様に家を細かくしている光景は複雑なものでした。

 復旧しても決して被害前の光景が復元されるわけではありません、それをどこかで理解していて「頑張ってもう一度立て直そう!」と現地の方はみんな前を向いていました。復旧後、そこにあの人の家がなくても、あっちにあの木がなくても、みんなはいる!なんかそんな思いなのかなと感じました。

このような貴重な経験を出来ていることを、支援してくださってる皆様に感謝します。



行ってみて感じた事はこのような事です。思えば思うほどいっぱい出てくるのでここで止めておきます。

めぐ

箱崎の記事(Excite ニュース)

5月27日に、漫画家たちが箱崎西山家で瓦礫撤去のボランティアをされたようです。

ウェブ上でも「Excite ニュース」において、閲覧することができます。

被災地で人気漫画家たちが瓦礫撤去ボランティア!〈岩手漫画家応援ツアー同行レポートpart2〉1ページ
被災地で人気漫画家たちが瓦礫撤去ボランティア!〈岩手漫画家応援ツアー同行レポートpart2〉2ページ

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地で人気漫画家たちが瓦礫撤去ボランティア!〈岩手漫画家応援ツアー同行レポートpart2〉

2011年6月8日 10時00分


5月26日から28日までの三日間にわたって行なわれた「岩手漫画家応援ツアー」のレポート、今回は2日目をお送りする。


■箱崎半島での瓦礫撤去ボランティア

朝5時50分、盛岡で宿泊したホテルのロビーにメンバーが集合する。本日は、釜石の箱崎半島で瓦礫撤去のボランティアに出かけるのだ。夜型の生活が多い漫画家の先生方なのに、誰ひとり寝坊せずに集まっていることに驚く。

車に分乗して箱崎半島へ向かう。途中、神子田の朝市で腹ごしらえなどしつつ、釜石のボランティアセンターまでは昨日と同じルートをたどる。片道2時間以上の道程だ。
長い山道と、田園風景の中を抜けて釜石市内に入ると、また昨日と同じ風景が左右にひろがる。

ラーメン屋の駐車場には、臨時の中古車販売場が出来ている。乗用車が必須の地方都市であれだけの量の車が津波で流されたのだから、中古車の需要が高まっているのは当然だろう。小学校の校庭には濃緑色の車輛が整列し、自衛隊の前線基地ができている。海辺のレジャー施設は支援物資の貯蔵庫になっている。みんなが“残されたもの”を利用して、全力で立て直しをはかっている。

道路を車で走っていると、ときおりガードレールなどに「支援ありがとうございます!」「NEVER GIVE UP!」「たくさんの想い、ありがとう」といった被災者たちによる感謝のメッセージが掲げられているのが目に入る。なんともいえないものが込み上げてくる。

やがて箱崎半島に着いた。今回われわれがボランティアをさせてもらうのは、箱崎半島にある小さな湾の奥でりんご農家を営んでいるお宅だ。この一帯も津波の被害を受けて、住宅のほとんどが押し流されてしまっている。
幸いなことに、りんご農家のお宅は高台の上にあったため、津波の直撃はまぬがれた。しかし、海側は瓦礫の山、背後は山に囲まれて、地震のあった日から2週間は完全に外界から遮断されてしまったという。その後、海側の瓦礫が撤去されてからも物資の不足は続き、遠方の親類などから食料を届けてもらって生活していたような状態だったとか。

海側の瓦礫はいまも重機による撤去が進んでいるが、問題なのはりんご畑だ。一段高くなっているうえに、瓦礫がりんごの木々の間に流れ込んでいて、撤去しようにも重機が入って来れない。そのため畑の瓦礫は人力で運び出すしかないのだ。だけど、その人手が不足している。そこで、われわれの手でこれをやってしまおうというわけだ。

この作業を通じて、津波による瓦礫というものを初めて間近に見た。無数の屋根瓦、家の外壁とおぼしきモルタルやコンクリの破片、割れたガラス、へし折れた材木。コンクリ片からは補強用の針金が飛び出ているし、材木からも錆びた釘がもれなく突き出している。軍手と長靴だけでは絶対無理。軍手の上に厚手のゴム手袋をはめて、長靴の底には釘の踏み抜き防止用の鉄板を入れないと、危険で仕方がない。

これらの瓦礫を、重機が入ってこれる一段下の場所までみんなでせっせと移動させる。ペンより重いものなど滅多に持たない漫画家さんたちが、黙々と汗を流す。わたしだってマウスより重いものなんか持たないが、この日ばかりは必死になって働いた。

瓦礫を掘っていると、いろんなものが見つかる。たいていはゴミとして処分してよいのだが、写真や手紙類、何かの証書や通帳、表彰状、免状といった思い出の品や、持ち主が判明しそうなものは捨てずに選り分けておく。泥まみれになっていても、洗浄してある程度までは元通りにする方法もあるから、迂闊に捨てるべきではないのだ。

何時間作業しただろう。途中から時間の感覚がなくなっていたので覚えていないが、夕方近くなってようやく瓦礫の撤去が一段落ついた。完璧とは言いがたいが、デスクワーク中心のメンバーにしてはそれなりの成果を上げられたのではないかと自画自賛する。
最後にりんご農家のお母さんからご馳走していただいた土地の名物“ざく汁”の甘みは、一生忘れられない味となった。
(とみさわ昭仁)

火曜日, 6月 7

本郷地区からの便り

6月7日、本郷地区コミュニティ消防センターに避難されていた小池さんと電話でお話をしました。20名近く避難していた人達も現在は仮設等に移り終え、避難所は解散になりました。ようやく小池さんも落ち着いてこられ、今後に向けて考える余裕もでてきました。津波で大きな被害を受けた街をどのように復興するかについては、高台を削り川下の低地を埋めることや、堤防を10m高くすること、さらにソーラーの街灯を設置することなどを、「復興街作り懇談会」において釜石市に提案し、具体的な話し合いを進めています。「皆さんの励ましが一番の力になりました。どうぞよろしく伝えてください」、また、「届いたデジカメを活用しています」とのことでした。引き続き、ノートPC、プリンタは募集しています。

本郷地区募集先一覧

team SAKE みつはる
投稿:team SAKE 足立

船越の記事と動画(朝日新聞)

朝日新聞6月7日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Asahi.com」において、閲覧することができます。

なお、サイトではワカメ漁の動画も見ることができます。

石巻で天然ワカメ漁再開 船や漁具など共同利用(動画有り)

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


石巻で天然ワカメ漁再開 船や漁具など共同利用

2011年6月7日21時38分


 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市雄勝町の船越漁港で7日、天然ワカメ漁が本格的に再開された。80隻以上あった船は5隻ほどに減ったため、船や漁具を共同で利用。震災後初めて海にこぎ出した高橋龍太郎さん(70)は「漁師は海に関わらないと生きていけね。今日は皆が生き生きしていた」。
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船越の記事(河北新報)

河北新報6月7日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

天然ワカメ協業化に手応え 石巻・雄勝で収穫始まる

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


天然ワカメ協業化に手応え 石巻・雄勝で収穫始まる


宮城県石巻市雄勝町の船越漁港で6日、天然ワカメの収穫が始まった。船や漁具を共同で使用する初めての作業で、7日以降、収穫と出荷作業を本格化させる。
 初日の作業には県漁協雄勝町東部支所の有志でつくる「ホダデ協業部会」の会員ら約10人が参加した。小船2隻に6人が分乗し、港周辺の磯場に出漁。約4メートルの柄が付いた鎌で旬を迎えた天然ワカメを刈り取った。
 波が高く、水の透明度が低い悪条件にもかかわらず、約30分の作業で約500キロを収穫した。浜に1台だけ残ったボイル釜で湯通しし、塩蔵処理した。
 協業部会は7日以降、津波被害を免れた船3隻と修理した2隻を使って6月末まで漁を続ける。1日4~5トンの収穫を見込んでおり、石巻市の業者を通じ出荷する。
 協業部会の生出藤弥さん(55)は「試験操業としては収量は上々。肉厚で品質もいい」と手応えを感じた様子だった。


2011年06月07日火曜日

小原木中学校避難所 近況

6月6日、小原木中学校の方からご連絡をいただきました。
「チームSAKEさんには、いろいろ送ってもらって、とても感謝しています。
現在、中学校のグラウンドに仮設住宅が立つ計画もあり、また唐桑半島の方の団地などに移られた方もおり、避難所としては人数が減ってきています。
ただし、まだまだ仮設が足りず、抽選にも漏れた方がいっぱい(40~50人くらい)避難所には残っています。
梅雨時期に入る前に、毛布などの洗濯を進めたいのですが、柔軟剤がありません。洗剤はいっぱい来るのですが、毛布を洗う柔軟剤はなかなか届きません。チームSAKEさんはとても頼みやすいので、ついお願いをしてしまうのですが、とても感謝しております。」
とのこと。
地域の復興に向けた話し合いも、毎週日曜日に集まっているとか。
まだまだ長期的な支援が必要です。
気軽に頼める支援先。そんな関係が築けていることにうれしさを感じます。
みなさん、引き続き支援をよろしくお願いします。

小原木支援募集中一覧


チームSAKE 川手光春

月曜日, 6月 6

岩井崎の記事(河北新報)

河北新報6月6日版に、岩井崎の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿


 潮吹き岩などの観光名所で知られる宮城県気仙沼市の岩井崎地区で唯一、東日本大震災による津波の被害を免れた民宿が、避難者を受け入れ続けている。震災直後は近くの住民が約2カ月にわたって身を寄せ、現在は2次避難者が生活する。「かつての観光地に戻ってほしい」。民宿を営む家族は復興を願いながら、被災者を支える。

 避難者を受け入れているのは、海に突き出た岩井崎の先端部の高台にある民宿「崎野屋」。畠山正朋さん(73)が夫婦で1973年に始め、現在は長男夫婦と4人で切り盛りしている。
 震災が起きた3月11日、畠山さん夫婦は民宿にいた。近所の人と海を眺めていると徐々に波が引いた後、急激に水位が上昇した。民宿がある標高約11メートルの高台を囲むように津波が押し寄せ、一時孤島となった。周囲の家々は「バリバリ」と音を立てて壊れた。
 市中心部につながる市道2本は、橋の落下とがれきで寸断された。11日夜は民宿で、周辺住民や近くの県気仙沼水産試験場の職員ら50人がろうそくの明かりを頼りに一夜を過ごした。
 12日以降は宿泊客向けに仕入れていた米や海産品、野菜を使って連日食事を提供。救援の飲料水が届くまでは、井戸水を沸かして飲んだり、生活用水に使ったりした。
 畠山さんは「近所の人たちも食料や毛布を持ち寄った。ライフラインが止まっても協力して支え合った」と振り返る。
 避難者は徐々に少なくなったが、受け入れは5月18日まで続いた。電気や水道が復旧した後の同22日以降は、2次避難者16人が身を寄せる。
 自宅が津波で流された同市本吉町三島の元船員三浦照夫さん(67)、捷美さん(66)夫婦は別々に避難していたが、この民宿で一緒に暮らすことができた。透析の治療を受けている捷美さんは「バランスのいい食事ができるし、風呂にも入れる」と感謝した。
 岩井崎地区にあったほかの民宿10軒はほぼ全壊した。畠山さんは「仲間だった同業者がいなくなってしまい寂しい。早く再建して観光客でにぎわう岩井崎に戻ってほしい」と話している。
(田柳暁)


2011年06月06日月曜日

土曜日, 6月 4

小渕浜の記事(朝日新聞)

朝日新聞6月4日版に、小渕浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Asahi.com」において、閲覧することができます。

漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」

2011年6月4日15時31分


 津波で電気が途絶えていた宮城県石巻市小渕浜の県漁協表浜支所に3日夕、震災後初めて明かりがともった。環境NPOや市民団体が屋上に太陽光発電パネルを設置した。

 小渕浜では津波で多くの家が流され、支所の組合員だけで十数人が亡くなった。がれきの撤去など地域で支援活動をしていたボランティアが、太陽光発電パネルを無償で設置しているNPOと連携。3日、6枚のパネルが設置された。

宮城県震災復興会議の記事(河北新報)

河北新報6月6日版に、宮城県震災復興会議の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議


会議の席上、宮城県知事は三陸海岸での「職住分離」を進める復興方針を示したのに対し、複数の委員が「コミュニティ分断につながる」などとして反対意見を出しました。

私はTeam SAKEでの活動を通じて、集落に住む人々が、どれだけその土地とつながりを保ちながら生活してきたのかを実感してきました。また、集落コミュニティ内で維持されてきた顔の見える関係が、震災時にどれだけの人命を救ってきたかも、つぶさに見聞きしてきました。

集落に住む多くの人にとって、集落コミュニティは生活の基盤であるばかりでなく、人生そのものであると思われます。「宮城モデル」として発信されるものが、果たしてどのような形となるのか、集落の人々の現実からかい離した考えで策定されていかれないか、注意深く見守っていきたいと考えています。

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議


 宮城県震災復興会議(議長・小宮山宏三菱総合研究所理事長)の第2回会合が3日、東京都内のホテルで開かれ、県は住宅の高台移転などを盛り込んだ「県震災復興計画第1次原案」を示した。大津波に襲われた沿岸部で、住居と職場を分ける「職住分離」を進める県方針に対し、複数の委員が「コミュニティーが壊れる」と異論を唱えた。
 1次原案で県は、沿岸部の住宅や学校、病院などは高台に移転する方針を明記。港に津波避難ビルを整備し、水産関係者は高台から通勤する「宮城モデル」のまちづくりを構築するとした。
 公共政策に詳しい千葉大教授の広井良典委員は「職住分離を強調した原案には違和感がある。最近のまちづくりは、コミュニティー分断を懸念し、職場と住居をあまり分けない」と指摘した。
 建築家の岡田新一委員も「三陸沿岸の高台にどれだけの土地があるか疑問だし、自然破壊という次なる災害をもたらす恐れも多分にある。都市計画の基本を曲げてはならない」と再考を促した。
 日本総研理事長の寺島実郎委員は「海から離れたがらない漁業者もいる。職住分離と決めつけずに、地域で考えさせてはどうか。『安全な職住近接』という考え方もあっていい」と強調した。
 村井嘉浩知事は「遠く離れた場所に住み、何時間も掛けて通勤するわけではない。職場まで車で数分の近隣に暮らすが、津波の再来も想定し、場所は安全な高台という意味だ」と理解を求めた。
 第3回会合は7月13日に都内で開く。県は7月上旬に第2次原案を取りまとめ、8月下旬の第4回会合を経て、県議会9月定例会に最終案を提出する。


2011年06月04日土曜日

第7陣 船越(雄勝半島)

本日、京都に戻りましたチームサケ7陣のはるかです。

今回は、船越で集落の集会があったので、そこにお邪魔してきました。
時間があまりなかったのですが、1陣が一番初めに訪れた波伝谷(はでんや)という集落にも足をのばしました。
当時、道がなく孤立状態にあって、山づたいに自転車と物資を担いでいたころからは、考えられないくらい復旧が進んでいます。多くの方の力を感じます。
他にも、顔を出したい集落はあるのですが、前回に引き続き船越に集中した活動となりました。


船越で生活をしている方たちの一日は、(たぶん)4時半頃に始まっています。
(私らが起きる頃には、すでに皆さん起きて動いています。)
日の出とともに活動を始め、7時前に朝ご飯を終えます。

その頃、車で30名くらいの方が入ってきます。
みなさん、避難生活を送っておられる方たちで、船越には家も何もありません。
石巻や登米、仙台などから毎日通っておられる方たちがいます。
2時間も3時間もかけて通い、瓦礫の撤去、漁具の回収、大切なものを探したり、復旧作業をしたり、学校の掃除をしたりしています。(まだ見つからない人も探し続けています。)

避難生活が長期化するに従い、意思統一が難しくなります。
毎日作業に帰って来られている方は復興の思いが強く、確かめ合えるとしても、避難先で長く過ごされている方たちには、様子もわからず、必然的に難しいことだと思います。

船越では、集落内で避難生活を打ち切った4月10日を境に、皆がバラバラになってしまいました。
4月1日に集会をして以来、毎1日、15日は集落に集まる日に決めました。
毎回何名が集まるかは、当日蓋をあけるまでわかりません。

今回、私と大学生のボランティアのメグは集会の前日に入り、メグは、復興したい思いのある中心メンバーのイメージする将来像をイラストにしました。

集会当日の早朝サケメンバー3名が合流し、東京から建築士の方、宮城県内の建築科の大学生も来られました。

集落の復興を望む中心メンバーは、朝から特別な面持ちでした。
復興のイメージを伝える特別な日だったからです。
加えて、皆が船越に住みたいと思っているのか、住みたくないと思っているのかを問うても良い時期だと判断していたため、アンケートを用意していました。

私たちも途中から集会にお邪魔しました。
若い漁師さんたち、おっかぁたちは、皆後ろの方にいました。
小学校の3階は、とてもきれいになっていて、津波をかぶったとは思えない環境です。
そこに100名が集っていました。


ここに詳しく書くことはできませんが、集会は集落の歴史上、とても大切な一点にいるように感じました。
再びこの船越で皆でこころ豊かに暮らしたい一心で、また子や孫、その先の子どもたちのことを思って日々自主的に作業してきた中心メンバーの深くあたたかい想いが垣間見える度、とても力強くしなやかなやさしさに包まれ、胸が熱くなります。

一方で、残念な場面もあり、悲しさや悔しさで涙が止まらなくなることもありました。

あきらめている方たちもいるし、希望を持って動いている方たちもいるし、その間で揺れている方たちもいます。今回、着々と進んでいる部分、足りていない部分、夢の絵図を共有し、更に皆さんの気持ちは揺れていると思います。今まで見たどんな場面よりも、「人間」を見ている感じがしました。

次回の集会も多くの方が参加されると予想されます。



「津波の後、互いのイヤな面を見る場面もたくさんあった。でもそれは人のやったことじゃなく、津波のやったことだと考えている。あれからもう大きな津波はこない。これからは人の心も元に戻る。お互いを責めないでいきたい。またみんなで生きていきたいだけなんだ。」中里さんからの電話で


7陣はるか

木曜日, 6月 2

船越の記事(河北新報)

河北新報6月2日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起

<石巻・雄勝・協業化始動/釜一つ、まずワカメ/「人生つらい方に懸けるのもいい」>
 浜にたった1台だけ残ったワカメのボイル釜。石巻市雄勝町船越の漁師グループは近く、この釜を頼りに漁を再開する。「協業化の第一歩だ」。1日、リーダーの中里孝一さん(55)は力を込めた。
 北上川が注ぐ追波湾に面する船越はホタテやワカメの養殖が盛んだった。津波の襲来で、150隻あった漁船は3隻を残し流された。養殖施設や定置網も海に消えた。高台の一部を除き、住宅もほとんど破壊された。
 中里さんも刺し網漁に使っていた「第7孝丸」(4.8トン)など所有する3隻を失った。見通しが立たない古里での暮らし。三男はまだ高校生だ。「商船にでも乗って稼げば楽になる」。一時は廃業も考えた。
 地区外の避難所などに移り住む人が次第に増え、逆に気が変わった。「せっかくの人生。つらい方に懸けてみるのもいいかもしれない」。同級生で漁師仲間の生出藤弥さん(55)と話し合ううちに、協業組織による再出発を決意した。
 30~60代前半の漁師17人によるグループを「ホダデ協業部会」と名付けた。東北なまりと「伊達(だて)」を掛けた。養殖物のブランド化を視野に入れ、「キャラクターマークも決めてある」と中里さんは笑う。
 天然ワカメ漁は数日中に始める。協業部会のメンバーは残った道具をかき集め、釜の修理を急ぐ。年内の早い時期に養殖施設を共同で設置し、ワカメやホタテの養殖を再開させる考えだ。
(大友庸一)


2011年06月02日木曜日