緊急のお知らせ欄


英語バージョンができました。 HERE comes ENGLISH version
現在、被災地で必要としているヒト、技術、知識 ★募集中一覧

支援別カテゴリー

岩手県集落別カテゴリー

宮城県気仙沼方面集落別カテゴリー

宮城県石巻方面集落別カテゴリー

木曜日, 12月 15

小原木タコちゃん




百万遍知恩院での手作り市
気仙沼市の大沢地区(小原木中学校区)から来られた皆さんが、
手作り市で復興タコちゃんを販売していました。
片道8時間の電車の旅で、
京都に来られています。
復興タコちゃんの収益で、クリスマスには仮設住宅に
ケーキを配れそうだとか。
かわいいタコちゃん詳しくはこちらのブログと見てね。
チームSAKEかわてみつはる

土曜日, 12月 3

馬場中山のニット製品、 復興珈琲の販売があります

12月4日(日)11:00~15:00
京都 シサム工房 事務所前ガレージにて
http://www.sisam.jp/blog/news/sisam15738.html
東日本大震災の復興に向けたチャリティーマーケットの第二弾があります。
チームサケも出展させて頂き、馬場中山の方の手編みのニット製品や
復興珈琲(ふっこーひー)の販売をいたします。

12月11日(日)17:30 開場 18:00スタート
いのちの祭り(会場:乾窓院、京都市上京区下竪町164)にて
http://www.sawakoama.com/
同じく馬場中山の方の手編みのニット製品、復興珈琲(ふっこーひー)の販売をいたします。

いのちの祭りは、出演するアーチストのご厚意で、
過去にチームサケの活動に寄付やボランティアで参加して頂いた方、
このブログを見て現地に物品を送って頂いた方は2000円、
その他何らかの形で被災地支援をしている方は2500円で
参加して頂けます。小学生以下の子どもは無料です。
事前に三枝 tmieda@mac.com まで参加のお申し込みをして下さい。

過去にこのブログにて報告させて頂きましたが、
南三陸町・馬場中山のニット製品は、みなさんで夏の暑い中編んでくださいました。
ぜひ、この冬にお手元にどうぞ。
女性の方たちは、何もない中から200名分のお食事や寝床、
顔を拭くための熱いおしぼりなど、
力を合わせ乗り切ってこられました。
それらの仕事に現金収入はなく、長い道のりを耐えてこられたと思います。
少しでも仕事につながればと思い、
みなさんに毛糸を呼び掛けるところから始めさせていただきました。

南三陸町にある眺めがキレイな珈琲神社のふっこーひー。
(復興の興の下に珈琲の珈と書いて3文字熟語でふっこーひーです。)
マスターは、お宅の全てを失いましたが、幸いお店が残りました。
こだわりの珈琲は、普段はお店以外で販売していません。

今年度最後の機会となると思います。
皆様ぜひ会場に足を運んで頂き、お買い求めくださいませ。

team SAKE 三枝

火曜日, 11月 29

気仙沼の大沢地区の方たちが京都に来られます!

ニュースです♪
気仙沼から大沢地区のお母さんたちが京都に来られます。
夢にまで見た京都旅行が実現します!

◎●◎

知恩寺の手作り市 タコアーティスト気仙沼より来る!
■日時:12月15日(木) 
■場所:百万遍 知恩寺の手作り市
■ワークショップ:自分のタコを作ることもできます。
(所要時間30分程度 材料は用意してくださっています)
※この日は、サンタタコもあるよ!お見逃しなく!
 なにより、大沢のみんなに会える!

◎●◎

'Don't forget Tohoku 4'
■日時:12月16日(金)12:20~13:20 
■場所:京都外国語大学 room 741教室にて
■お話:星美保さん(気仙沼市大沢より 小原木中学校避難所の若いリーダー)
□ワークショップ:13:30-14:50

◎●◎


気仙沼の小原木中学校で避難生活を送っている頃、
「みんなで仮設住宅に移れたら、京都に旅行に行こう!」と、
「そんな計画を立てるのが今の楽しみ♪」と、
話されていたのが懐かしいです。

仮設住宅に移った今でも、学校の一部屋を借りてアトリエとし、
小原木タコちゃんを作っています。

小原木タコちゃんとは、team SAKEのつながりで、京都のマルティナさん
(手作り市でドイツの毛糸を使った製品で有名)の声かけで始まった
プロジェクトです。
タコの足は、切ってもまた生えてくる。
再生のシンボルです。

大沢という集落の再生を願い、買ってくださる方もいます。
なんか憎めない顔、おもしろい顔、かわいい顔・・・豊かな表情にイチコロで買ってくださる方もいます。
我が家では、照明のひもに付けて、毎日顔を合わせてます♪

小原木タコちゃんってどんなもの?って方は、
ブログが必見です。
⇒小原木タコちゃん


team SAKE ボランティア はるか

月曜日, 11月 7

小原木復興イベントかえっぺす!















小原木の復興イベント
「かえっぺす!」が11月3日の文化の日に開催されました。
地元の大沢青年婦人部が中心となり、加茂神社祭典とともに行われました。
例年と異なり、整っていない中での開催に参加者が集まらないのではないかと心配されていましたが、蓋を開けたら多くの方々にお集まりいただき大盛況のうちに終了しました。
県外からも横浜市立大学や神戸大学や東北芸術工科大学の学生のみなさん、在日スリランカ友好協会のみなさん、日本テラーワダー仏教会のみなさん、ラーメン義援隊のみなさん、日本財団ROADプロジェクトボランティアの皆さんなど、多くの方が協力に入っておられました。

昔ながらの神楽や地域の獅子舞。
太鼓やよさこい。
出店は、カレー、ハンバーグプレート、フランクフルト、フライドポテト、焼き鳥、焼きそば、わたあめ。
わなげ、くじ引き、ヨーヨーつりなど、屋台が充実していました。


チームSAKEのメンバーは、まんじゅうの販売と小原木タコちゃんの販売のお手伝いをしました。
終了後の打ち上げで、手伝っていた地元の若手のホープが、「大沢に生まれて良かった!」と挨拶していたことに、心を打たれました。
この地域は絶対、帰ってこれると確信したイベントでした。

最近チームSAKEで支援させていただき始まったブログも要注目です。
希望の轍 ~気仙沼市唐桑町大沢地区復興のあゆみ~

チームSAKE 川手光春

小原木中学校 高台移転説明会

11月2日夜、小原木中学校で
気仙沼市による、高台移転の説明会に参加してきました。
気仙沼市役所の担当の方による、震災復興計画の説明と
防災集団移転促進事業についての説明でした。地元の方100名ぐらいが参加していました。
防災集団移転促進事業は、地域で合意を形成し、市へ申し込んでから進んでいきます。
しかし、まだまだ国の再検討による決定がなされていないので詳細が決まっておらず、その決定を待ちながらも準備を進めている状況がよくわかりました。

国の再検討結果が11月中旬にも出そうだとか。
よい方向に変更されていることを期待したいところです。

今後、詳細を積めていくのに、さらなる合意形成が重要になってくることもわかりました。
配置される家の位置、誰がどこに入るか、アプローチ道路をどう配置するか、などなど。

大沢地区は、高台の候補地が南三陸道のルート予定地とかぶっているという問題もあり、
一筋縄ではいかない。

しっかりと確実に合意をとりながら、協力して素早く進めていく必要がありそうです。
大沢地区では、横浜市立大学の皆さんの協力のもと、住民のワークショップを進めているそうで、とても力強いです。

チームSAKE 川手光春

水曜日, 10月 19

10/20(木)明日の報告会で珈琲、昆布、スレート石のペンダント販売します。

明日 10月20日(木)19時~21時
京都市中京区 三条通り東洞院東入る北側 河合塾303号室
にて チームサケ の報告会をいたします。

詳しくは、以前のブログ
→ココ
をご参照ください。

会場では、
南三陸町にある珈琲神社の復興珈琲(ふっこーひー)や
石巻市雄勝半島船越の津波を免れたこーんぶ や
同じく船越のスレート石のペンダントなどを
販売いたします。

津波前の貴重な昆布も手元にわずかとなってきました。
お買いもの感覚でも、ぜひ報告会にいらしてくださいね。

team SAKE ボランティア はるか

金曜日, 10月 14

10/17~10/30 東京神田にて エプロンマルシェ “お料理がだいすきな人のための2週間”

東京の神田では、アートマルシェ神田にて、
エプロンマルシェ “お料理がだいすきな人のための2週間”が開催されます。
10月17日(月)から30日(日)まで
http://www.utte.co.jp/joomla/content/view/1324/87/

ここで、船越のおしゃぶり昆布と南三陸町の珈琲神社の復興珈琲(ふっこーひー)の販売をお願いしています。
utteさんとのご縁に感謝しています。

船越の昆布は、天然昆布で昨秋に収穫したものです。
とろろ昆布の原料なので、粘りと甘みが抜群です。
ゴックンと飲み込まずに、いつまでもいつまでも噛んでいると、ねばねばとろ~りおいしいですよー。
お子さんから大人気♪

南三陸町にある眺めがキレイな珈琲神社のふっこーひー(復興の興の下に珈琲の珈と書いて3文字熟語でふっこーひーです。マスターの創作語です。)
マスターは、お宅の全てを失いましたが、幸いお店が残りました。
こだわりの珈琲は、普段はお店以外で販売していません。ぜひこのタイミングでお飲みください。


おしらせ チームサケ ボランティア はるか

10/16(日)アースデイ神戸 in autumn

10月16日(日)11時~17時 ホームズスタジアム神戸 無料
アースデイ神戸に出店します。
 アースデイ神戸2011秋(外部リンク)

●販売するのは・・・
・馬場中山のニット製品
・船越のスレート石で作ったペンダントなど
・南三陸町にある珈琲神社の復興珈琲(ふっこーひー)
・船越のつなみをまぬがれたこーんぶ おしゃぶり昆布もあるよ。

南三陸町・馬場中山のニット製品 みなさんで夏の暑い中編んでくださいました。
ぜひ、この冬お手元にどうぞ。
女性の方たちは、なんにもない中から、200名分のお食事や寝床、顔を拭くための熱いおしぼりなど、力を合わせ乗り切ってこられました。それらの仕事に現金収入はなく、長い道のりをこらえてこられたと思います。少しでも仕事につながればと思い、みなさんに毛糸を呼び掛けるところから始めさせてもらいました。ステキなものがたくさん届きました◎

船越のスレート石に、被災されたみなさんが絵付けしたペンダントもあります。
スレート石とは、真っ黒い石で、よく知っているところで言えば、すずりの原料です。
現地では屋根瓦になっていました。黒くならぶスレート瓦は、うろこの様でキレイです。
ほとんどが流され、またもう取れないので、現在復興の中で使われているものは中国産です。
ここでは、津波で流されたモノの中から、壊れた瓦屋根を拾い集め、磨いたものに絵付けしています。
漁師としてやってきたけど、実は絵心があったんだ!?なんてお互い驚きながらやっています。


お知らせ チームサケ ボランティア はるか

火曜日, 10月 11

報告会を開きます!(10月20日)

皆様

Team SAKEの伊東です。
お世話になっております。

しばらく間が開いてしまいましたが、主に8月以降の
活動報告を行いたいと思います。
ご都合の良い方は、ぜひご参加いただけると嬉しいです。

日時:10月20日(木)19時~21時
場所:河合塾京都校303号教室
京都市中京区三条通東洞院東入ル菱屋町41-2
http://www.kawai-juku.ac.jp/kosyapage/KosyaTop.php?ks=531

内容:
・石巻市雄勝町船越の復興計画づくり支援
・南三陸町馬場中山、気仙沼市大沢地区、雄勝町船越などの
手作り産品販売支援(大丸復興市など)
等々

なお、今回は京都府建築士会まちづくり委員会の皆様のご協力で、
会場を無償でお借りできることになりました。


team SAKE 伊東

毎月11日ガイアシンフォニー上映会にてチームサケの活動報告

311から7カ月目を迎えましたね。

京都ガイアなかまの会により、京都では、ガイアシンフォニーを毎月11日に上映します。
京都ガイアなかまの会
そこで、サケの活動報告をさせていただき、
また寄付もいただく予定です。

今日は、第一番。
象の孤児たちを面倒みる象のエレナやエンヤの音楽が恋しくて、私も参加しようと思います。

上映前には、東日本大震災と先日の台風12号の被害を受けた和歌山や奈良へも 大祓いの祝詞をあげてくださる儀式もあるそうです。

毎月11日をこうして、何かの形で共有したりするのは大切なことだと思います。
サケの活動へのご理解とご協力に対しても感謝しています。

サケボラはるか

水曜日, 10月 5

10/9(日) ベジタリアンフェスティバルに出展+トーク

今週末の日曜日 京都市下京区にある仏光寺さんにてベジタリアンフェスティバルがあります。
ベジタリアンフェスティバル2011


2003年より毎年行われていて、とても大きなおいしい楽しいお祭りです。
ぜひいらしてください。

サケは活動報告のためのブース出展とステージ上のトークにも参加します。

team SAKE ボランティア はるか

日曜日, 9月 18

第12陣 船越の状況

現在船越では、月1回の住民全体集会に加え、毎週1回の復興勉強会が催されています。

船越住民の方々の、集落に戻りたいか、戻れないかという意向把握が進んでいます。今の所、「絶対に帰ってきたい」という31世帯を中心に復興へ向けた話し合いが続けられていますが、今後帰ってきたい人はさらに増えていきそうな情勢です。

みなさん、とにかく早く船越に戻り、これから復興していくほかの集落のモデルケースになっていこう、という気概を持っておられます。

勉強会の最後に、先日棟挙げが行われた旧北上町の白浜ホテル跡復興住宅を全員で見に行きました。
みなさん、実際に船越の対岸でこのような家が建設されつつあることに、希望を新たにした様子でした。

船越レディースは、貝に古着でカバーした小物、スレート瓦に色付けしたもの(ピースボートの提案、船越ブログ参照)、スレートの破片を利用したペンダント(IDRO JAPAN参加の洛星高校英語教師の提案)などを作っており、船越小学校3階はそれらの工房と化しています。


Team SAKE 足立

土曜日, 9月 17

京都大丸にて 物産展 参加中 

プロの中で ボランティアが 被災地の預かり物を売るのは
簡単じゃないですぅ~。

今日もがんばっていますので、ぜひ京都へお越しの際は、
京都大丸の7階までいらしてくださーい!

今頃、足立は船越で住民の復興集会に参加している頃です。
いい流れになっているといいです。
それを祈って、京都では船越の 津波に負けなかったこ~んぶ!を売ってますよー!


team SAKE はるか

火曜日, 9月 13

ブログの英語バージョンができつつあります。

TEAM SAKE のブログの英語バージョンがほぼできました。


HERE comes
ENGLISH version




翻訳には、多くのボランティアの方たちのお力添えがありました。
ありがとうございました。
ここまで来るのに、時間がかかってしまいましたが、
今後、英語を読める色々な国の方たちが、東日本大震災での被害について、
広範囲でかつ大規模であったために、個々の様々なケースがあることを
実感していただき、また、三陸の漁師さんたちの生き方、向かい方、立つ姿を
少しでも知っていただければ、team SAKEの役割が少しでも果たせるかな、
と思っています。

どうぞ、海外にお友達のおられる方は、ぜひ、この英語版のサイトをご紹介ください。

TEAM SAKE はるか

金曜日, 9月 9

京都大丸にて 三陸からの預かり物 出展

大変ご無沙汰しております。
チームサケのはるかです。

9月14日(水)~20日(火)
京都の大丸 全国物産展に 参加します。

船越ホダデ協業部会 の名前で、
船越の津波をまぬがれたこ~んぶっ

大沢の毛糸でできたタコちゃん

馬場中山のニット製品
珈琲神社の珈琲3種
など、
盛りだくさんです。

ぜひ、足をお運びください。

http://www.daimarukyoto.com/dgcatalog/busan/#page=2

今週の日曜日、作業のお手伝いをしてくださる方も歓迎です。

チームサケはるか

火曜日, 8月 9

8月6日の報告



電車組はお昼を目指して到着。
おいしいものがいっぱい。
すてきな作家さんの作品がいっぱい。
森の中には竹の橋やベンチが施されていて、子どもたちが楽しそうに水遊びをしていました。

日曜日, 7月 31

8/13 ガイアシンフォニー第7番上映会にてチームサケ報告

8月は、第11陣が少し長めに三陸入りする予定です。
同時に京都での様々なイベントにも関わります。

8月13日(土)は、ガイアシンフォニーの第7番の上映会があります。
京都のダンサーERIKAさんが奉納の舞をされた後、
上映会があり、その後でサケの報告会があります。
サケへの寄付を予定してくださっています。

ぜひお越しください。
サケからは三枝(みえだ)が報告に参加します。
上映会のチラシはこちら → ●

■8月のサケが参加する催しの予定

・8月6日(土)
山の上マーケット
京セラ夏まつり
三条会商店街 三条会屋台村

・8月13日(土)
ガイアシンフォニー第7番

■9月のサケが参加する催しの予定
・9月14日~20日 京都大丸物産展

金曜日, 7月 29

山の上マーケット2011

*山の上マーケット2011
*京都府南山城村・旧野殿童仙房小学校にて
*8月6日(土)雨天決行 10~16時

友人の川合夫妻は、チームサケの第1陣から支援してくれている木工作家さんと工房を切り盛りされています。

山の上マーケットは、とってもイイもの揃いで、気持ちのいいマーケットです。
サケのパンフレットを置かせてもらったり、三陸の訪問した先の巨大地図を貼らせてもらったりする形でご厄介になります。
寄付も考えてくださっているとか・・・。

みなさん、ぜひ8月6日は、京都府の唯一の村 南山城村へ

木工の作品は、心と背中が思わずすっとするステキな作品なんです。


陶芸、木工、ガラス、金属、織物、雑貨・・
もちろん美味しいお茶おはじめ、パンやお菓子も・・
約60店舗が出店されます。
いいものと涼しさを求めて山の上へお越し下さい

お問い合わせ:山の上マーケット実行委員会 川合
TEL/FAX:0743-93-3155


う~ うなるほど 行きたいっ!
山の上マーケット2011 → ●

シサム工房でチャリティイベント

7月31日(日)2時から6時
御影通りのシサム工房事務所前にて
チャリティーイベントがあります。

sakeも昆布のお店を出します。
(が、売り子が足りていません・・・)

いろいろなワークショップが開催される、にぎやかなお祭りになりそうです。

フライヤーはこちら→ ●

シサム工房のホームページはこちら→ ●

金曜日, 7月 22

手作り市の出店者情報

継続的に活動、寄付をしてくださっているドイツの方たちの橋渡しをしてくださっている 京都在住の梅村マルティナさんが手作り市の出店者情報で更新されていました。

ご紹介します。→ へいわのくつした

投稿 team SAKE はるか

水曜日, 7月 13

小石浜の記事(毎日新聞)

毎日新聞7月13日東京夕刊に、小石浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

東日本大震災:岩手・大船渡「恋し浜ホタテ」ピンチ 漁港沈下、陸揚げできず

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:岩手・大船渡「恋し浜ホタテ」ピンチ 漁港沈下、陸揚げできず


 ◇海は目の前にあるのに…

 岩手県大船渡市の特産「恋し浜ホタテ」が、東日本大震災で危機に陥っている。若手漁師たちは再開に向け動き始めたが、大きな支障になっているのは小石浜漁港の荷さばき場の地盤沈下だ。約70メートルにわたり70センチほどが沈んだため、船を接岸してホタテを陸揚げすることができない。綾里(りょうり)漁業協同組合小石浜青年部長の佐々木淳さん(40)は「一部だけでもいいので直してもらえないだろうか」と訴える。【馬場直子】

 大船渡市三陸町綾里の小石浜地区は、約30世帯のほとんどがホタテ養殖に携わる。取引価格低迷や「三陸産」とひとくくりにされることを危ぶんだ佐々木さんらは03年、地名をもじって「恋し浜ホタテ」と名付け、電話注文による消費者への直接販売を始めた。

 数量を制限し、身が厚く甘みのある商品に仕上げた。直販による鮮度の良さもあって顧客は全国に広がり、出荷量は03年の1・7トンから昨年は21トンと大きく増え、売り上げも12倍になった。

 三陸鉄道にも働きかけ、09年に最寄り駅の名前を「小石浜」から「恋し浜」に変えてもらった。駅はホタテの殻を使った絵馬を飾る縁結びスポットとしても知られるようになった。

 しかし、津波で養殖場や作業場は壊滅。佐々木さんも船1隻をなくし、買いそろえた機械は使えなくなった。今年と来年に収穫するホタテも全滅し、佐々木さん個人の被害総額だけで約4000万円に上るという。ほかの漁業者も同様の被害を受けた。

 被災直後から養殖再開に向け、がれきを片付け始めた。「何年かかってもいいから、養殖が再開したら取引させて」。取引先や顧客からそんな電話も受けた。養殖に使える小舟も借りられるようになった。ただ地盤沈下した港は船を寄せただけで座礁してしまい、どうにもならない。震災から4カ月が過ぎ、佐々木さんは焦りを感じている。

 「養殖できる海は目の前にあるのに……すぐにでも漁場を再開させたいんです」

毎日新聞 2011年7月13日 東京夕刊

月曜日, 7月 11

4カ月目の日に。

みなさんこんにちは。

京都のはるかです。
今日は、311からちょうど4カ月ですね。
昨日は、三陸沖でマグニチュード7.1の地震があり、船越のブログによれば、
30センチ位の津波が7,8回に渡り、押し寄せてきたそうです。
船越(宮城県石巻市雄勝半島)復興への歩み 2011-07-10

311以前と違って、地盤が沈下しているため、少しでも津波が来ると大変です。
三陸で出会った皆さんのことが心配です。


金曜日は、京都外国語大学の国際教養学科のpeace studiesという授業にお邪魔してきました。
100名位の学生さんと、わざわざ来てくださった市民の方とで、双方向にやりとりをするのは難しい環境でしたが、みなさん熱心に話を聞いてくれました。
教室には、一人だけ二度現地入りをした学生さんがいました。
彼女は、「向こうとこちらのギャップがつらい」と話していました。
被災地で被災者と特に交流をしたわけではないけれど、一緒に行った仲間で直接話された方がいたそうです。
その方が聞いた被災された方の言葉は「忘れられるのが一番つらい」でした。
それで、彼女は DON'T FORGET TOHOKU というタイトルを付けて、宣伝をしたり準備をしたりしてくれていました。

質問もたくさんあり、終了後も、多くの学生さんが寄ってきてくれました。
ちょっとやんちゃそうな男子学生も 「向こうってまだ人足りないんすか?俺でも役に立ちますか?」などと聞きに来てくれました。

もっと、反応がないのではないか?と、たかをくくっていました。こんなことなら持ち時間の半分を質問タイムにすればよかった・・・。
また授業に行きたいくらいです。全然違うやり方で場を共有したいと思いました。


サケのブログを通じて、離乳食を送られた滋賀県在住の方は、「離乳食を送ることで、『何かできないか?』という思いが満たされるものかと思っていたけれど、お礼の電話があって、メールの交換などをすると、今度は赤ちゃんの日よけ帽子が必要ではないかとか、日焼け止めが必要ではないかとか、逆に気になるようになった」そうです。
そういうわけで、その後も継続して支援していただいています。

他にも、ブログを通じて物資の支援をしたことをきっかけに、ずっとメールや手紙のやりとりをしてくださっている方がいます。
ありがたいですし、うれしいです。


第5陣、6陣の報告会でライブをしてくださった
元 五つの赤い風船の長野たかしさん 森川あやこさん ご夫妻は、飯野川中学校という避難所でライブをしてくださいました。
歌い終えてから、「がんばらんでいいって思ったわ。ありがとう。」と声をかけられたと話されていました。


私ごとですが、今日は、福島の避難した先でクッキーを作るプロジェクト「にこまるプロジェクト」のクッキーを買いました。
とってもおいしいし、作られた方からのはがきが入っていました。
お手紙を書いてみようと思います。

チームむかご

チームむかごって、チームサケと通じるところがあるな、って勝手に親近感を持っています。


team SAKE はるか

木曜日, 7月 7

チームサケ活動報告のお知らせ 7/8(金)京都外国語大学

明日、報告をさせていただきに、京都外国語大学に行きます。
お近くの方、お時間のある方、ぜひキャンパスでお会いしましょう。

Friday, July 8th 7月8日 金曜日
Period 5 Room 171 5限目(16:40 - 18:10) 171教室

京都外国語大学
〒615-8558
右京区西院笠目町6
TEL:075-322-6012

参加費は無料、言語は日本語です。
※ワカメや昆布がご入り用の方は、今晩中に teamsake311(あっと)gmail.com にご連絡をくだされば会場に持って行くようにします。

投稿:team SAKE はるか

月曜日, 7月 4

紙ふうせん:1杯10円に託す思い/山口・下関のバー(毎日新聞)

毎日新聞7月4日九州版に、チームサケに寄付を続けてくださっているバー"yellow"の早川洋輔さんが載っていましたので、お知らせします。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

紙ふうせん:1杯10円に託す思い/山口・下関のバー

カクテルなどのドリンク1杯につき10円の寄付をしてくださっています。
最初は、毎日コンビニなどから義援金を続けてらっしゃいましたが、活動が見えるところを通じて、という思いから、チームサケを通じて三陸の支援をしてくださっています。
4月から5月6月と3度目の寄付が入りました。
毎回、ありがとうございます。

team SAKE はるか


~~~以下掲載記事~~~


紙ふうせん:1杯10円に託す思い/山口・下関のバー


 山口県下関市のバー「yellow」のマスター、早川洋輔さん(31)は東日本大震災直後から、飲み物1杯につき売り上げ10円を義援金に充てる運動を続ける。早川さんの思いは次第にお客にも拡大。「息の長い支援にしたい」と話す。

 早川さんは東北地方と縁はないが、震災発生からしばらくは重苦しい空気が店内に漂ったという。客は普段の半分以下。仙台市に友人を持つ客は「津波で行方不明になった。心配でならない」。被災地から避難してきた客もおり、職を失って沈痛な面持ちでグラスを傾ける姿に、早川さんは「思いを受け止めるのが仕事なのに、声が掛けられなかった」と振り返る。

 そんな折り、手持ちのお金を数えては、大切そうに飲む大学生を見て、気付かされたという。「多くの人がさまざまな思いを託して1杯を飲む。その1杯に被災地への思いも込めたい」。これが「『1杯10円』運動」となった。

 「被災地に10円が行くけえ」と声を掛けると、女性客たちは「心を込めて飲みます」。「マスターの分と私の分」と、余分に10円を置く客も現れた。早川さんはこれまでに京都市のボランティア団体を通じ、計約2万6000円送っている。「少ない額ですが、1杯ごとに被災地を考えてもらえる。支援は人の思いの積み重ねなのかもしれませんね」【尾垣和幸】

2011年7月4日

第9陣 船越でのこと

宮城は今、大雨です。
車で京都に向かって発ちました。

今回は、土曜日の晩、真夜中に船越に入り、小学校に泊まって
翌朝日曜日の5時から、復興を目指すホダデ協業部会の中里さんと話をしました。

4時に浜の見周りをされ、帰ってきた中里さんと小学校で出会いました。
中里さんは、毎朝そうして、見周りをされています。
もしかして、和尚さんや本家のおじいさんやその他のまだ見つからない方たちが見つからないかという思いや、
誰かにとっての大切なモノが見つからないかという思いもあってのことです。

瓦礫の撤去は急速に進んでいます。
船越がかなり復興に向けて動いている姿勢を見せているせいもあるかな、と思います。
一方で、瓦礫の撤去が進むと、誰かにとっての大切なものも瓦礫の一部となって、誰にも見つからないところへ行ってしまうので、毎日欠かさず、時間をとっておられます。

前日、隣の浜で一人あがったとのことや、何一つ見つからないと言っておられた方の物が見つかったことなど、続けられていることの意義を感じます。大変な苦労である点は、想像を超えます。


月末に、朝ズバッという番組で船越が特集されたことを機に、多くの方が支援に入られています。
一方で、今までになく、顔の見えない関係というか、電話だけの関係が始まったりして、(これは考えたくないことですが)良からぬ展開もゼロではないということから、一緒に考えて確認をすることにしました。

結果、みなさん本当に善意で協力をしてくださることが分かり、安心して話を進めていけることになりました。

前回、船越入りしたときに、ブログを立ち上げたので、今回は自分たちのブログが皆さんにどう映っているのかを確認したり、実はコメントという機能があって、毎日のようにコメントが入っていたことを知ってもらったりしました。

それから、昨日お伝えしたように、「はるかちゃん、お墓参り行ぐか?」と誘っていただきお墓参りに行きました。
「絆」と、大きく書かれたお墓は、お二人にとっては、「息子たち3人のおうちの様にしたかったんだ。」と、特別な思いで造られたことがよく伝わりました。
一緒に行った伊東さんには、小さなお子さんが3人おられます。とても耐えられない様子でした。

亡くなられた3人にお会いすることができなかったけれど、お二人と3人の、その間にあるものは、いつもとてもはっきりと、強く感じられます。


お墓参りのあとで、住民集会に参加しました。
話し合いの際に、ホワイトボードでもあれば、みんなの共有が進むのにね。というつぶやきから、ボランティアで来ていた大工さんにお願いして、家庭科室の黒板をはずしてもらって、集会をする部屋に移してもらいました。
こういうのは、よそ者の視点の方が気づくものなんだな、としばしば思います。

午後は、伊東さんは、持ち込んだコピー機で資料のコピーをしたり、作業の手伝いをしたりして、
私は、料理やなんかを手伝ったりして過ごしました。
(この間、始終ハエ叩きをしています。)

夜は、漁の話を聞きました。
漁をするときに、いかに鳥たちがサインをくれるか、どうやって他の漁師と駆け引きをするか、いろいろな話を聞きました。

孝一さんが寝てからは、おっかぁから今の気持ちを聞きました。
毎度思うのですが、こうして、「お互いしんどい思いをしている関係」ではない、被災していない者がゆっくり話を聞けるのは大切な時間だと思うのです。
泊まらせてもらって、一緒に枕を並べて、眠りにつくまで話すときも、他のみんながいるときには、話されないようなことを耳にします。
家族を失った者のつらさ、家が残った者のつらさ、集落を出て行く者のつらさ、それぞれがそれぞれに抱えています。

私は初めて被災地入りした4月の頭、訪れた六ヶ浦のおばあさんに言われた「震災と関係のない話を聞いてくれることもボランティアさんの役割だってこと覚えておいてね。」の言葉が支えになっています。
彼女のところにもまた行きたいですが、なかなか叶いません。

数えてみれば5度目の被災地でしたが、これまでと違って今回は、こちらにいる間にしんどくなりました。
いつもは、京都に帰ってから、おなかが痛くなったり、眠れなかったり、呼吸が浅くなったりするのですが(そして、それはそうなって当然だろうと思って無理せず自分とつきあっているのですが)、今回は初めてこちらにいる間にしんどくなりました。

今朝は寝坊して、6時半近くに小学校から中里家に行きました。
すると、内陸に避難している方たちも、もう集まっていて、手に入ったばかりのどなたかが撮られた津波の映像を観ていました。
観るとしんどくなると言いながらも、みなさん何度も観ていました。
私も今や隔週で来ている雄勝の津波の様子は初めて観、動揺しました。あまり観たくないのが正直なところです。

そのあとで、請求書を作ったり、領収書を作ったり、ワカメの発送作業を手伝ったりしました。
パソコンを使えるボランティアが秘書のように、この集落にステイできればいいのにね。と、私と伊東さんは言い合っています。
今週の金曜日、京都外国語大学の授業をお借りして、チームサケの活動を報告する機会があるので、夏休みに行きたい人はいないか、誘ってみようと思います。

それから、ワカメの茎取りの作業をしたり、最後に多くを共有したりして、船越を後にしました。

仙台では、ワカメや昆布のパッケージのデザイナーさん、NPOの宮城県温暖化防止センター、建築士さんなどと打ち合わせたりしました。
毎回、帰りに仙台のキーパーソンと直接打ち合わせることができるのも、仙台の復旧が早かったおかげです。


えらい長くなりました。
パソコンでネットが通じるようになって、(私の悪い癖ですが)長文になってしまいました。
すみません。

京都外国語大学での報告は、
7月8日(金)17時40分からです。
どなたでもご参加いただけるそうです。
※チームサケを招いてくださったマルティナさんは、この日の晩、再び小原木中学校避難所へ発たれます。


もう福島に入ってました。。。雨は相変わらず。

9陣 チームサケはるか
編集:team SAKE 足立

日曜日, 7月 3

9陣の報告

みなさんこんにちは。

現在船越におります大関はるかです。
今回は、前回同様、伊東さんと現地入りしています。

三陸は、とにかくハエがひどいです。
ここのところ、私は2週間おきに定期的に三陸に入っていますが、
右肩上がりの増え方です。

報告のはじめからこんな話で失礼ですが、とても深刻です。
どうしたもんでしょうか。
みなさんハエ叩きの腕前がどんどん高まっています。


今、私は船越にいます。
311以降初めて、被災された方で、津波で家族を亡くされた方のお墓参りに同行しました。
これまで、話を聞くばかりでいましたが、毎日お参りに通われる方たちと、共にその場を過ごし、うまく言えないのですが、他人事でないような、今までにない感情を抱きました。
息子さんとお嫁さんと最愛のお孫さんを同時に亡くされたお二人は、「お墓に来ると、毎日泣いてしまうんだ。」「でも、ここに来ると安心するんだ。」と話されていました。

アンパンマンのおもちゃとコップ、息子さんのためにタバコに火を点けてやる姿が、今浮かびます。


昨日は、雄勝の復興市で、「津波に負けなかったわーっかめ」が千袋も売れたそうです。
「昨日は楽しかったね~」と、今日集会に集まったみなさんが話されていました。

でも一方で、状況が様々に変化し、しんどさも多様化している様子がうかがわれます。

仕事があることは希望だと思います。なるべく仕事につながるようにというのが、私が前回の8陣の間に感じたことでした。
だけど、今回感じているのは、前を向いて歩こうとされているその内側は、やはりとても苦しく重たいものだということです。

ここのところ、「私たちの方がむしろ元気をもらう。」と言ってきたけれど、それは、一方で事実なのですが、一方で何かを表現していないと思っています。
今日はなんだか前向きでないことしか書けずすみません。
震災後に訪問した方たちを再訪し、少しゆとりのある時間の中でお話に耳を傾けることが、今とても大切な気がしています。

明日はもう少し報告めいたことを書くようにします。


9陣はるか

金曜日, 7月 1

小原木での緑のカーテン設置の記事(両丹日日新聞)

Team SAKEメンバーの川手光春が勤める京都府地球温暖化防止活動推進センターの仲介で、小原木小学校の仮設住宅に「緑のカーテン」としてゴーヤの苗が植えられることになり、福知山環境会議のマスコットキャラクター・ゴーヤ先生たちが現地を訪れました。

これから夏本番ですが、緑のカーテンが順調に育てば、仮設住宅の温度上昇が緩和されることでしょう。

両丹日日新聞6月20・25日、7月1日版に、関連記事が掲載されました。

ウェブ上でも「WEB両丹」において、閲覧することができます。

仮設住宅に緑のカーテン 福知山産ゴーヤ苗200本で

被災地の仮設住宅に緑のカーテンを― ゴーヤ先生らが気仙沼で苗植え

ゴーヤ先生が被災地の子たちに笑顔届ける 各地の「ゆるキャラ」仲間と

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


両丹日日新聞2011年6月20日のニュース

仮設住宅に緑のカーテン 福知山産ゴーヤ苗200本で


 夏を迎える東日本大震災の被災地の仮設住宅に「緑のカーテン」をと、福知山市から緑の親善大使・ゴーヤ先生が24日、宮城県気仙沼市へ出向き、住民たちと一緒にゴーヤの苗を植えてくる。
 
 
 苗は福知山環境会議に参画するエスペック福知山工場で育てた福知山産。市民に栽培を呼びかけて配布したのと同じものを200本用意した。ほかにプランター、園芸用土28リットル入り120袋を同社で調達。ツルを巻き付かせる栽培用ネットを環境会議から提供してもらった。これら資材で2トントラック1台分になるという。
 
 向かうのは気仙沼市唐桑町にある小原木小学校。校庭に仮設住宅が建っている。6世帯1棟の5棟と集会所1棟。府地球温暖化防止活動推進センターの仲介で話が進んだ。
 
 入居している人たちが住んでいた地域は、入り江の奥の漁村で、180世帯あったうち140世帯が津波で流失したという。打ち合わせのため13日に現地入りしたエスペック社の谷口真奈見さんは、高台にある小学校の静けさと、学校の下に広がる海辺の惨状との違いに言葉も無かったといい、「それでも生活再建をと前を向く被災者のみなさんに接し、できる協力をと強く感じました」と話す。
 
 入居者からの要望を受け、福知山市連合婦人会が作ったゴーヤのレシピ集も、30冊の提供を受けて携えることになった。
 
 ゴーヤ先生はエスペック社員や住民たちと一緒に苗を植え、翌日からは南三陸町へ移動し、各地の「ゆるキャラ」たちと復興応援イベントに参加する。


~~~~~~~~~~~~


両丹日日新聞2011年6月25日のニュース

被災地の仮設住宅に緑のカーテンを― ゴーヤ先生らが気仙沼で苗植え


 福知山環境会議のマスコットキャラクター・ゴーヤ先生たちが、これから暑い季節を迎える東日本大震災の被災地に「緑のカーテン」を作ろうと24日、宮城県気仙沼市の仮設住宅でゴーヤの苗200本を植えた。仮設住宅の人たちは、頑張って育てていきたいと話し、緑のカーテン完成を心待ちにしているという。
 ゴーヤを植えたのは、気仙沼市唐桑町の小原木小学校校庭にある仮設住宅。6世帯で1棟になった5棟と集会所1棟が建っている。入居者は、元は入り江の奥の漁村に住んでいた人たちで、180世帯のうちの140世帯が津波に家を流された。

 24日は雨のひどい中だったが、エスペック社(福知山市)の谷口真奈見さんら社員、仮設住宅の住民らが協力し、作業をすすめた。住民は、住宅にいる女性や高齢者ら、ほぼ全員が参加し、手早く植えた。ネットは、エスペックの社員が中心となって張った。

 3時間かけて終えたあと、住民らに緑のカーテンの育て方を伝え、福知山環境会議の「ゴーヤ先生なりきりタオル」、福知山市連合婦人会のゴーヤ料理レシピ集をプレゼントした。
 谷口さんは「これから緑のカーテンを通じ、福知山市と気仙沼市唐桑町のみなさんの交流が始まります。本当に楽しみ」と話す。

 ゴーヤ先生は、25日に茨城県水戸市の震災復興支援イベント、26日に宮城県南三陸町の復興市のイベントに参加する。
 
■ ひまわりの苗と温かい手紙も届ける ■
 
 ゴーヤ植え付け前日の23日、ゴーヤ先生たちは福知山市猪崎のひまわり保育園から頼まれた、ひまわりの苗と園児の温かい手紙を気仙沼市立小原木保育園へ届けた。
 
 小原木保育園は、17人の園児のうち7人が津波で家を失い、5人が避難所の小原木中学校体育館から通っているという。
 
 ひまわりの苗を手渡し、ひまわり保育園園児らの手紙も読み上げられ、保護者を含め園児たちを笑顔で包んだ。


~~~~~~~~~~~~


両丹日日新聞2011年7月 1日のニュース

ゴーヤ先生が被災地の子たちに笑顔届ける 各地の「ゆるキャラ」仲間と


 「みどりのカーテン」作りを推進する福知山環境会議のマスコットキャラクター・ゴーヤ先生が6月25、26両日、東日本大震災の被災地を元気付けるため、茨城県水戸市と宮城県南三陸町で開かれた復興支援イベントに参加した。全国各地のゆるキャラが集う催しで、被災地の子どもたちと交流し、みんなの心を癒やした。
 25日は、茨城県水戸市の映画「桜田門外ノ変」オープンロケセット・記念展示館で開かれた。ゴーヤ先生ら西日本を中心に結成した「ゆるキャラ応援隊」と地元のゆるキャラ、合わせて約30体が「ゆるキャラ音頭」などを踊り、会場を盛り上げた。記念展示館は震災以来、来場者数が1桁だったが、この日は1000人を超える人たちが集まったという。
 
 26日には、宮城県南三陸町で開かれた〝福興市〟に参加した。福知山環境会議広報の谷口真奈見さんは、訪れた被災地の中では、南三陸町が最も悲惨な状況だったという。「360度見回しても何も無く、瓦礫の山だった。残っている建物も、中身は全て津波に持っていかれた状態でした」と話す。
 
 ショックではあったが、被災者らもイベントスタッフとして尽力する姿を見て、気持ちを入れ直し、本番に臨んだ。
 
 宮城県・むすび丸を含む16体のゆるキャラが、10分間のステージでAKB48「会いたかった」のダンスを披露し、会場の人たちを喜ばせた。ゴーヤ先生はステージ後、ゴーヤの種やステッカーを配るなどして交流し、集まった子どもたちを笑顔にした。
 
 ゴーヤ先生は震災後、グッズを売ってチャリティーに充てるなどの支援をしており、これからも出来ることを長く続けていきたいと意気込んでいる。
 
 24日には、みどりのカーテン作りの取り組みとして、気仙沼市の小原木小学校にある仮設住宅でゴーヤなどの苗植えもしており、9月に再び訪問する計画でいる。

木曜日, 6月 30

船越への寄付ありがとうございました。

船越への漁のための道具を買うために40万円の寄付を募集したところ、
なんと1日で集まりました!

ありがとうございました。

ちなみに、送るものは
こちらです

そして、船越のブログは
船越(宮城県石巻市雄勝半島)の復興への歩み

引き続き、 集落の望み をチェックしていただければ幸いです。

team SAKE はるか

水曜日, 6月 29

雄勝半島の船越集落が朝ズバッ!で特集される予定です。

チームサケで、継続的に支援に入っている 宮城県石巻市雄勝半島の船越 の方たちが番組で取り上げられる予定です。

本日 6月29日(水)8時前後 TBS みのもんたの朝ズバッ! という番組内です。

いつもニュースやブログでしか発信できていませんが、船越のみなさんのお顔や声、思いなどが きっと映されると思います。

船越のブログ 
船越(宮城県石巻市雄勝半島)復興への歩み

火曜日, 6月 28

名振と船越の記事(三陸河北新報)

三陸河北新報6月28日版に、名振と船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも閲覧することができます。

高台移転 市に要望

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


■高台移転 市に要望
2011.06.28
石巻市雄勝の名振・船越地区
住民が独自案「支援を」/


 東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた石巻市雄勝町の名振、船越の両地区は独自の復興計画案を作成し、27日、亀山紘市長に実現に向けて支援を要望した。雄勝では各地区の住民代表で組織する「雄勝地区東日本大震災復興まちづくり協議会」が市の復興計画に地元の意向を反映させようと、5月から会議を重ねてきたが、地区単位でも計画案を作成する動きが出てきた。

 名振、船越両地区は、設計や都市計画の専門家の助言を受け、高台への移転案をそれぞれ独自に作成。住民代表ら14人が市役所を訪れ、模型や資料を使って亀山市長に説明した。

 名振地区は、高台の畑を住宅地にする案を作成。移住を希望する29世帯が入る住宅を傾斜を生かして建設する考えで、地権者の了解も得た。

 住宅は2階建てで、世帯人数に合わせてメゾネットと長屋の2パターンを用意。屋根には雄勝スレートを使い、地場産業の振興を支援する。被災した旧住宅があった場所は漁業施設や作業場、倉庫などにする。

 地区会長の大和久男さん(56)は「最初は公営住宅にしてもらい、数年後に住民が買い上げるようにしてもらいたい」と協力を求めた。

 船越地区は、山を切り崩して出た土砂を船越小周辺の住宅街に入れて土盛りし、広い高台を確保した上で、住宅や寺を移転する案を主張。追波湾からの強風が吹き付ける峠崎に風力発電施設を設置し、船越・荒両地区で利用する案も提示した。

 住民代表の中里孝一さん(55)は「環境に優しい復興のモデルになれるよう、支援をお願いしたい」と訴えた。

 両地区は漁業が盛んな一方、高齢化が著しい。大和さんは「若い世代が住みたいと思うよう、イタリアの海辺の街並みのように、風土に合った美しい漁村をつくりたい。観光客が集う復興のモデル地区を目指したい」と張り切っている。

 まちづくり協議会は、7月上旬に全住民4300人を対象にしたアンケートを行う予定。雄勝地区での生活を続ける意向と、雄勝で生活するために必要な施設を調査し、委員が検討してきた計画案に反映させた上で、7月末までに市へ提案する方針だ。

金曜日, 6月 24

箱崎半島の記事(毎日新聞)

毎日新聞6月24日岩手版に、(御)箱崎半島の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

.東日本大震災:災害に強い御箱崎半島に 釜石4地区住民、共同で街づくり計画 /岩手

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:災害に強い御箱崎半島に 釜石4地区住民、共同で街づくり計画 /岩手


 壊滅的な被害を受けた釜石市の御箱崎半島にある4地区の住民が、共同で災害に強い半島を目指した街づくり計画を練り始めた。震災で市中心部につながる市道が寸断し地域が孤立したため、半島内の各地区を結ぶ道路建設などのプランが挙がっている。住民たちは「半島全体で意見を集約し、行政に要望していきたい」と意気込んでいる。

 「通信手段がなく、市と連絡が取れたのは被災3日後だった」

 「このままでは半島に人が戻ってこなくなる」

 6日、御箱崎半島の両石、根浜、箱崎、桑の浜の各地区の代表者ら約20人が釜石市内の中学校に集まった。震災後初めての顔合わせだったが、防災上の問題点を指摘する声が次々と上がった。

 御箱崎半島の両石湾では遡上(そじょう)高約19メートルの津波が襲った。約200人が亡くなり、各地区の漁場は全壊。海沿いを通る一本道の市道の一部が壊れ通行できなくなり、各地区は一時孤立した。市内有数の観光名所だった根浜海岸も、地盤沈下と防潮堤の崩壊で砂浜を失った。

 6日の会合を呼びかけたのは釜石市両石町の漁師、松本忠美さん(64)。両石町は3月から復興のための協議を続けてきたが、主産業である漁業の復活や津波に強い住宅地建設のためには半島全体で協力する必要があり、各地区の代表者に声をかけた。

 初会合では、災害時に避難路になる道路を半島の山間部に建設する計画に各地区が賛成した。避難生活をしている住民が早期に集団で地元に戻る方法の検討▽海水浴場を中心とした復興--などを求める声も上がった。松本さんは「4地区が街づくりを協議するのは初めてで不安はあったが、方向性は同じとわかった。今後も会合を重ね、意見を集約したい」と話した。【稲垣衆史】


毎日新聞 2011年6月24日 地方版

月曜日, 6月 20

箱崎の鯉のぼりの記事(毎日新聞)

毎日新聞6月20日岩手版に、Team SAKEでも募集を行った、箱崎の鯉のぼりの記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

東日本大震災:避難した人、帰ってコイ 釜石・旧箱崎小にこいのぼり280匹 /岩手

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:避難した人、帰ってコイ 釜石・旧箱崎小にこいのぼり280匹 /岩手

 ◇全国の思い伝わる


 ボランティアが全国から集めたこいのぼり約280匹が、釜石市箱崎町の旧箱崎小学校の屋上に揚げられ、元気良く空に舞った。

 約280軒の集落だった箱崎町は、津波で約9割が流された。多くの人は町外に避難し、現在70人程度しか残っていない。

 地元の漁師の西山晃弘さん(41)が、こいのぼりに「いなくなった住民に帰って来い」とのメッセージをこめて揚げようと発案。5月にボランティアで訪れた神奈川県海老名市の生花店経営、渡辺誠一さん(32)らがホームページの掲示板で無償提供を呼びかけて実現した。

 赤や青の色とりどりのこいのぼりの中には「埼玉の空を泳いでいた鯉(こい)が、北国の空を泳いで、皆さんの健康と町の復興を見守ってくれることを願います」などとメッセージが書かれたものも。学校の裏山から屋上にわたされたロープにつるされると、住民から歓声が上がった。

 西山さんは「沈んだ気持ちでいたが、全国のみなさんの思いが伝わり、元気が出た」と空を見上げていた。【山田尚弘】


毎日新聞 2011年6月20日 地方版

木曜日, 6月 16

第8陣 小原木(唐桑半島)

一方今晩は、気仙沼の小原木中避難所に足をのばしました。私は初でした。
(今日行った感覚では、私たちは小原木中避難所と言ってきたけれど、大沢という集落の方たちなんだなぁと。)

さて、私たちが避難所に入ると、マルティナさんの送っている編み物を女性の方たちが熱心にされていました!
みなさん、「仮設に入って落ち着いたら、京都さ行くからねー。それを考えるのが今の一番の楽しみ♪」と言っておられました。
「もしも編み物なかったら、一体この2ヶ月どうやって過ごしていただろう。どうなってたかわからない。この前、京都から先生(マルティナさん)がご家族で来られて、教室をしてくれたとき、楽しかったー。靴下を途中まで編んできてくれていて、かかとを編む練習をみんなでしたの。今、その続きをしているの。もうできあがった人もいるの。」口々に話されていました。

マルティナさんは、京都の手作り市に出店されています。そこで売るために、小原木中避難所のみなさんが仕上げた作品を買い取ることもしてくれます。

「だったらせっかくなので、みなさんからのメッセージを書いて入れたらどうでしょうか。」と、提案させていただきました。
「産地直送だ!」と盛り上がっていました。

とってもアットホームな感じで、しきりのついたてもなく、シャワーや洗濯機も、うまくシェアできているそうです。

子どもたちも異年齢の子たちで夕飯後に広い校庭で遊んでいて、自転車の補助輪なしで乗れるようになったり、いいニュースもあるようです。

これまで行ったこともない集落でも、チームサケの仲間が細かく報告してくれてるおかげで、なんだか知った気持ちでいます。みなさんの笑顔を見たとき、特別うれしくなりました。

8陣 team SAKE はるか

第8陣 船越(雄勝半島)

今回のメンバーは、はるかと足立と3陣で参加の伊東さんと高校2年生のれふちゃんの4人ですが、
京都のボラグループ IDRO Japan のロバートさん、アレックスさんの車に便乗させてもらって出発しました。

京都の大工のロバートさんは、前回船越に入り、小学校の割れた窓サッシを18枚持って京都に帰りました。今回はそれらのに全て新しいガラスを入れられ、持ち込まれるところでした。


今、船越小学校は、新しい窓ガラスが入り、そうでないところも、ロバートさんたちが瓦礫の中から窓の代わりとして使えるものを探し、はめられています。黒板などがはまっていて、とてもおしゃれに見えます。

あとは、(欲を言えば)畳などが敷き詰められればなぁと思います。
集落のみなさんが毎日遠くの避難所から通って、瓦礫撤去や浜の掃除、漁などをされていることを考えると、休める場所が集落内にできることはとても大切だと思うのです。

学校がきらいで行くことができずにいる京都のれふちゃんは、出発時は泣きはらした目をしていましたが、どんどん顔がイキイキしてきて、集落に入る度、みんなの人気を集めています。気づいたことを進んでしてくれるしっかり者で、ボランティアとしては抜群です。年齢は関係ないなと思いました。



15日
船越では、住民の集会が行われました。
朝は、私とれふちゃんはワカメの茎とり作業に混ぜてもらいました。
男性二人は持ち込んだパソコンと携帯プリンタで、資料づくりのお手伝い。
おっかぁたちは、れふちゃんの学校嫌いの話を聞いてくれて、「楽しいことをしたらいいから、ムリして行かなくてもいい。津波の後は本当にそう思うようになった。」と、おっしゃっていました。

私から見ると、津波の後、都会の高校生の登校拒否の相談を受けるなんて、集落の方たちにはないことだと思うのです。
なんだか、悩み相談を受けてるときのみなさんが、こっちの集落でもあっちの集落でも、普段と違うテンションに見えます。

さて、集落会議。
報道陣が多いせいか、みなさんはいつもの感じではないように見受けられました。
(前回は、私は最後列でビービー泣いていました・・・。人間のふかーいものを目の当たりにして、なんとも言えないものを感じたのでした。)
報道が復興の大きな足がかりになればと、つい期待してしまいます。

サケがつないだ建築士の方たちが、現状の立体模型を持ってきてくださいました。「これから船越のみなさんが将来像を構築していくための道具で、宝物じゃありません。切ったりはったり自由にして、話し合いを具体的にする一助としてくだされば幸いです。」と、おっしゃっていました。


つい、いきなりゴールを目指したくなりますが、考えては意見をもらい、また考えることが大事です。

建築士の方いわく、「プロも、平面だけで考えると大きく見誤ることが出てきます。だから必ず模型を作るんです。それに、最初のアイディアが最後の完成作になることはまずなく、何度も考え、模型にし、検討し、また模型にし・・・を繰り返すんです。だから、みなさんも話し合っては、専門家に見てもらい、金銭的な面や実現可能性などをアドバイスしてもらって、また検討するを繰り返してください。山は一度切り崩したら、元には戻せませんしね。」

漁師さんに通ずる部分もあるようで、うんうんとうなずいてらっしゃいました。

team SAKE はるか

水曜日, 6月 15

岩手日報6月15日版に、綾里田浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「岩手日報WebNews」において、閲覧することができます。

高台移転へ住民が組織 大船渡・綾里の田浜地区

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


高台移転へ住民が組織 大船渡・綾里の田浜地区


 東日本大震災で大きな津波被害を受けた大船渡市三陸町綾里の田浜地区の住民は高台移転を検討する住民組織「田浜震災復興委員会」を立ちあげた。集落単位で住民主導で動きだすのは県内に先駆けており、人口流出とコミュニティー崩壊への危機感が住民を駆り立てた。実現には行政支援が不可欠だが、国の対応が遅いことで「足止め」を食らう格好になりかねず「国はまどろっこしい」との声も上がる。

 田浜地区は63戸。同地区契約会の野村誠一会長によると、今回の津波で22戸が流され8人が亡くなった。同地区は明治三陸大津波や昭和三陸大津波でも大きな被害を受けた。

 惨状に住民は「このままでは地域がなくなる」と危機感を募らせた。6月に入り、役員が高台への集団移転について勉強会を開催。12日夜には一般住民も参加し、委員会を設立することで合意した。

 委員会では▽浸水地域は高台に移る▽コミュニティーを大事にする▽漁業がやりやすい環境▽家屋を流された人の経済負担を少なくする-などを考慮しながら方策を検討。具体化はこれからだが、田浜の海を望める山を削り、浸水地域の一部をかさ上げするアイデアを国の補助で実現したい考えだ。

 明治の津波で被害を免れた自宅が今回は全壊し、仮設住宅に住む漁業の男性(67)は「田浜は海からすぐ高い山がある。高台を切り開いて移転し、海の近くには加工場などを建てればいいのでは」と賛同する。住民の9割は漁業を営んでいる。

 市災害復興局の佐藤高広局長は「地域ごとに地形や特性は異なるので、住民との合意形成が必要。今後も相談していきたいが、国の動きも見ながら進めたい」と語る。

 浸水区域からの集団高台移転は県が復興基本計画の柱として示した「グランドデザイン」でも3パターンの一つとして位置付けられており、住民の考えは合致する。

 土地の買い上げや新たな宅地造成など、多額の行政支援が不可欠。しかし、国の方針、新たな補助制度もなかなか固まらない。

 野村会長は「国の動きを見ながら進めたいが、どうもまどろっこしい。早く手を打たないと、待ちきれず田浜を出て行く住民がいるかもしれない。コミュニティー崩壊を防ぐためにスピード感が重要だ」と訴える。

(2011/06/15)

火曜日, 6月 14

第8陣 馬場・中山(南三陸町歌津)

第8陣(足立・伊東・大関・山下)は、馬場・中山集落を訪れました。

ここは、3月に第1陣で最初に入った集落のひとつで、また「鮭」という名前をつけて頂いた所でもあり、Team SAKEにとっては特別な場所です。
第5陣までは毎回寄らせていただきましたが、その後1ヶ月以上の間ご無沙汰となっていました。その間も馬場中山生活センターホームページなどを通じて、復興の様子を見守らせて頂いておりました。

リーダーの阿部倉善さんは、町から派遣されてきた方への対応など、相変わらずお忙しそうでした。

一時は200人ほどの方が生活されていた馬場中山生活センター避難所ですが、現在残っておられるのは60人ほど。紆余曲折を経てようやく建設されることになった集落裏の高台の仮設住宅が、あと1週間ほどで入居可能になるそうです。それに伴い、ここの避難所もついに解散となります。

team SAKE 足立


以下、大関はるかの報告を載せます。


↓ここから~~~~~~~~~


6月14日
チームサケの名付け親の馬場中山集落では、ちょうど銀鮭を食べてるときに、「最近チームサケを見かけねぇな」って話してたら、向こうから歩いてやってきてびっくりした!と、言われました。


馬場中山は今は漁ができる状態にありません。瓦礫を片付けるのに町から手当てが出ますが、女の人たちは、ずっと集落全体を支えてきたけど、それで収入をもらえるわけではありません。時給300円でもいいからなんとか仕事なり手当てなりないかと、女性のリーダーのきくみさんはみんなのことを思って気をもんでおられました。
以前、このことをある記者に言ったら、紙に文章で書いてみたらと言われたけど、うまく言葉に書き起こせませんでした。

今、集落内で編み物教室などをして、みんなが輪になれる場を作ることを心がけています。家族を失ったまま見つからない方や、考え込んでしまう方も、編み物の輪は、少し気を紛らわすだろうと考えてらっしゃいます。
また、仮設住宅に移ってバラバラの生活が始まっても、生活センターに集まって、つながりを大事にしていきたい思いもあってのことです。

私は、どなたかにロゴ(やはり※虎次郎か?)を作ってもらって、馬場中山の女性たちが作ったものとわかるようなタグを付けて売ったらいいと思うと言いました。なにしろ、質は上等なんです。
4月上旬に伺った際、編み物をする余裕は一切ないとおっしゃってたきくみさんが印象的だったので、今こそお手伝いできればと思いました。デザイナーさん居ませんか~?

きっと浜で仕事ができれば、すごくかっこいいだろう女性たち、今日まで、すばらしい団結力と知恵で集落全部を支えて来られたのだから、浜に戻る日まで、なんとかがんばってほしいです。

きくみさんは、ケータイもめがねも免許証も財布も全てかえりみずに、生後3ヶ月のお孫さんだけを抱いて、津波から逃げ切り、みんなのことを考えて今日まで乗り切ってきました。いつも笑っておられて、こちらが元気をいただいています。

畑でとれたきゅうりやかぶらを漬けた物をいただきながら、お話を聞きました。
おいしかったです。


※虎次郎:馬場中山生活センターに住んでいる猫

team SAKE はるか

6/25(土)報告会をします。

■日 時:2011/6/25(土)13:00~
■場 所:akikan 京都市下京区 新町通り高辻北西角 ファミリーマート3F
■参加費:300円(会場使用料として)
■内 容:7,8陣での活動報告 特に船越の動きについて

月曜日, 6月 13

会計報告

多くの方々から活動資金のご寄付をいただき、ありがとうございます。
平成23年6月13日現在

現在寄付等合計 2,739,100円
延べ145名・団体の方にご寄付いただきました。


6月13日現在の支出確定分です。
活動費の一部は、
現時点では含まれておりません。
支援物資購入 1,182,970円
保険      15,400円
装備      189,796円
燃料      179,024円
活動資金    132,138円(交通費&仕入含む。前回報告より、支援物資購入等に割り振りあり)
合計    1,699,328円

【新着】「Teamsakeしんぶん」Vol1できました。

「Teamsakeしんぶん」Vol1(PDF:3.2Mb)


URLは以下の通り
https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B3hhTI5wPJdWMTc3N2Y1ODEtZjQxNS00MzA1LTlmZGEtMGViOWNhNzU2MmFh&hl=ja

今後不定期に発行予定です。

チームSAKE 川手真理子

土曜日, 6月 11

船越のおいしい昆布



船越で採れる昆布は、ねばりと甘みが強く、とろろ昆布向きです。
天然の昆布を刈り取って、天日乾燥させ、それを引いてとろろ昆布にするそうです。
豊かな漁場で年中さまざまな海産物が採れる船越ですが、髙橋照雄さんは、昆布漁一筋三代目のとろろ昆布を引く職人さんです。

前の津波の教訓で、荒地区は高台に家があったので、旬の時期に採った昆布は、全て津波を免れることができました。

とろろにする前の昆布は、出汁に使ってもおいしいですが、おやつにおしゃぶり昆布が抜群です。
京都の子どもたちは、すっかりこれにはまっています。噛めば噛むほどねろねろねばねば・・・
楽しいおやつで、いつまでも食べてます。

親たちも、(悲しく、悔しいことですが)福島の原発事故によって放射能が漏れている不安の中で子育てをすることになってしまい、今まで以上に昆布やワカメなど海藻を採らせてやりたいと考えています。

無添加でおいしい昆布、とろろ昆布は京都の以下のお店で購入が可能です。
また、おしゃぶり昆布は、準備が整い次第、お知らせいたします。

 楽天堂・豆料理クラブ 上京区下立売通七本松西入北側(アスニー近く)
      月曜~土曜:午後1―7時 定休日 日曜&祝日

 ダイシン食料品店 三条会商店街 三条大宮東入る南側 
am 8:30~pm 6:30ごろ 定休日 日曜日・祝日

金曜日, 6月 10

雄勝町船越産ワカメの販売が始まりました!

雄勝半島の船越集落では、宮城県内に先駆けて6月6日に天然ワカメの収穫を始めましたが、「津波に負けなかった!わーっかめ」という商品名で販売を始めました。


6月10日には石巻市役所雄勝支所前で販売を行い、多くの売り上げがあったそうです。
今後、販売箇所も増やしていく予定ですので、よろしくお願いいたします。

また、船越では雄勝半島特産の雄勝石(雄勝硯の原料)を屋根瓦に使った家屋が多かったのですが、津波による被災で、瓦礫の中にスレート屋根瓦が多く埋もれています。
日本最大の生産量を誇った雄勝硯の復活へ向け、まずはボランティアなどを通じたスレート石の回収・再利用へ向けた取り組みも始めていく予定です。



team SAKE 足立

木曜日, 6月 9

小渕浜の記事(毎日新聞・朝日新聞・テレビ朝日)

6月9日の毎日新聞宮城版・朝日新聞・テレビ朝日に、小渕浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」「Asahi.com」「テレ朝NEWS」において、閲覧することができます。

■毎日新聞:東日本大震災:石巻の小島清掃 カヌー愛好60人が参加 /宮城
■朝日新聞:カヌーでがれき撤去 スクリューなくすいすい(動画有り)
■テレビ朝日:【震災】「もう一度海に…」カヌーでがれき撤去(動画有り)

team SAKE 足立


~~~以下毎日新聞掲載記事~~~


東日本大震災:石巻の小島清掃 カヌー愛好60人が参加 /宮城


 石巻市牡鹿半島の小渕浜漁港内に浮かぶ小島で8日、全国のカヌー愛好者らが東日本大震災の大津波で打ち上げられた漁具やがれきを撤去するクリーンアップ作戦を展開した。

 清掃作業があったのは漁港岸壁から約30メートルの港内に浮かぶ小島。旧牡鹿町町史などによると、島には大型定置網「大謀網漁」の創始者と伝えられる鳥海弥三郎をまつった鳥海神社があり、地域住民から「鳥海(とのみ)様」と親しまれ、子どもたちも泳いで渡れる遊び場だった。

 今回の大津波で、流失家屋のがれきや漁網、養殖施設の残骸などが大量に打ち上げられ島の様子は一変。神社も流失した。

 クリーンアップ作戦は、実行委員会の鈴木匠会長が「子どもたちが安心して遊べる環境に」と、全国の仲間たちに呼びかけて実施された。

 この日は、北海道から沖縄までの全国各地のカヌー愛好者とその仲間たち約60人が参加。スクリューに漁網などが絡むため漁船では航行が困難な島周辺をカヌーやゴムボートを使って清掃した。実行委では12日まで、同漁港内のがれき撤去作業を続ける予定だ。【石川忠雄】


毎日新聞 2011年6月9日 地方版



~~~以下朝日新聞掲載記事~~~


カヌーでがれき撤去 スクリューなくすいすい

宮城2011年6月9日10時18分


宮城県石巻市小渕浜の漁港で8日、ボランティア約60人が集まり、カヌーで小島に散乱するがれきの撤去をした。

 岸から数十メートルの小島には、地元漁師が「漁業の神様」として「鳥海(とのみ)様」をまつり、年1回神事を行っていたが、社ごと津波に流された。地域に入っていたボランティアが漁師の鳥海様への思いを知り、清掃を決めた。海中にはがれきが残り、スクリュー付きでは航行が難しいため、カヌーでの作業となった。

 作業にあたったカヌーデイ実行委員会の鈴木匠さんは「漁師をやめようという人も多い中、もう一度海へ出るきっかけになれば」と話していた。(小川直樹)



~~~以下テレビ朝日掲載記事~~~


【震災】「もう一度海に…」カヌーでがれき撤去(06/09 11:52)


 宮城県の牡鹿半島で、津波で漁港に流れ込んできたがれきをカヌーを使って撤去する作業が行われています。

 がれきの撤去作業を行っているのは、全国から集まったカヌー愛好家やボランティアおよそ60人です。津波で流された網などがスクリューに絡んで船が航行できないため、がれきが手つかずのままになっていた牡鹿半島の小渕浜漁港で、カヌーやゴムボートを使って、海の中や地元の人たちが漁業の神様として祭る「小島」でがれきを回収しています。
 参加者:「地元の漁師がもう一度海に出るきっかけになれば」
 牡鹿半島でのカヌーを使ったがれきの撤去は今月12日まで続きます。

水曜日, 6月 8

第7陣で参加した大学生ボランティアの報告

みなさんこんにちは。

週末に戻って以来、ご報告ができておらずすみません。
今回は、主に船越という宮城県石巻市雄勝半島にある集落の支援に重きをおいて活動してきました。

船越の方から、未来像を描いてくれる人を紹介してほしい、という声を受け、サケブログで呼びかけたところ、数名の方から連絡を受けました。
その中で、京都の芸術系の大学生めぐちゃんが現地入りしてくれ、滞在中、小学校の中の瓦礫の撤去やお掃除などを手伝ったり、みなさんの未来像を描いたりしてくれました。
私が見ていた感じでは、船越のみなさんは、若いめぐちゃんの訪問自体をとても喜んでいたと思います。特におじさんたち。

彼女が感じたことを書いてくれましたので、以下に紹介させていただきます。
ここまで team SAKEはるか


ここから 第7陣 めぐ


~行ってみて感じたこと~
行って一番印象に残っているのは、現地の方がすごい元気な事と、景色です。

・現地の方
 私は現地の方が心痛められているのではないかと、かなり緊張して現地まで行きました。
 いざ現地まで行ってみると、現地の方々はみんなすごく元気で無理していないかと心配になったほどでした。
 「どうしてみなさんこんなにパワーがあるのでしょうか?」
 と聞いてみたところ、
 「こうやって生きている私たちがいつまでも落ち込んでいられない。みんなの前では明るく居たい。」
 と話してくださりました。
 更に、
 「心や体、しんどかったりしませんか?」
 と質問をしてみたところ、
 「みんなのこの明るさは元々持っているものだから、自然と出てしまう。」
 と話されていました。


 この時、現地の方に感心を受けましたし、みんな暗黙の了解的にマイナスな感情を表に出していないところに心配も覚えました。

 また私の住んでいるところは、隣の家の人とのお付き合いでさえままならないので、現地の方々の幅広い付き合い方がとても羨ましく思えました。
 もし私が住んでいる「お隣さんさえ頼れない町」が被災したら、みんなマイナスの心は閉じ込めておけないだろうと、そう感じました。

 支援しに行ってる私が元気をもらってしまって、頭で考えていたものとのギャップにやられました。

・景色
 私が先日行って、「うゎ・・・」って思ったということは、震災直後はどうだったんだろうと考えるだけでもぞっとします。
 何もかもなくなると言う事がどういう事なのか少しですが分かりました。
 実際自分は被災地を目の前にしてどういう事を思うのか分かりませんでした。


 行ってみて、心が空っぽになった感じです。「かわいそう」とか「大変そう」「悲しい」と言う感情は生まれないと思いました、あの景色をみて。
 あの景色は感情にさえも浸らせてくれませんでした。
 唯一「何で?」と言う言葉は出ました。「何でこうなってしまったのだろうか」と。
 毎日のように復旧作業が続いているし、状況は上向きなのでしょうが、あの自然豊かな土地や心の広い現地の方には似合わない大きな機械達が、トラックに乗せやすい様に家を細かくしている光景は複雑なものでした。

 復旧しても決して被害前の光景が復元されるわけではありません、それをどこかで理解していて「頑張ってもう一度立て直そう!」と現地の方はみんな前を向いていました。復旧後、そこにあの人の家がなくても、あっちにあの木がなくても、みんなはいる!なんかそんな思いなのかなと感じました。

このような貴重な経験を出来ていることを、支援してくださってる皆様に感謝します。



行ってみて感じた事はこのような事です。思えば思うほどいっぱい出てくるのでここで止めておきます。

めぐ

箱崎の記事(Excite ニュース)

5月27日に、漫画家たちが箱崎西山家で瓦礫撤去のボランティアをされたようです。

ウェブ上でも「Excite ニュース」において、閲覧することができます。

被災地で人気漫画家たちが瓦礫撤去ボランティア!〈岩手漫画家応援ツアー同行レポートpart2〉1ページ
被災地で人気漫画家たちが瓦礫撤去ボランティア!〈岩手漫画家応援ツアー同行レポートpart2〉2ページ

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地で人気漫画家たちが瓦礫撤去ボランティア!〈岩手漫画家応援ツアー同行レポートpart2〉

2011年6月8日 10時00分


5月26日から28日までの三日間にわたって行なわれた「岩手漫画家応援ツアー」のレポート、今回は2日目をお送りする。


■箱崎半島での瓦礫撤去ボランティア

朝5時50分、盛岡で宿泊したホテルのロビーにメンバーが集合する。本日は、釜石の箱崎半島で瓦礫撤去のボランティアに出かけるのだ。夜型の生活が多い漫画家の先生方なのに、誰ひとり寝坊せずに集まっていることに驚く。

車に分乗して箱崎半島へ向かう。途中、神子田の朝市で腹ごしらえなどしつつ、釜石のボランティアセンターまでは昨日と同じルートをたどる。片道2時間以上の道程だ。
長い山道と、田園風景の中を抜けて釜石市内に入ると、また昨日と同じ風景が左右にひろがる。

ラーメン屋の駐車場には、臨時の中古車販売場が出来ている。乗用車が必須の地方都市であれだけの量の車が津波で流されたのだから、中古車の需要が高まっているのは当然だろう。小学校の校庭には濃緑色の車輛が整列し、自衛隊の前線基地ができている。海辺のレジャー施設は支援物資の貯蔵庫になっている。みんなが“残されたもの”を利用して、全力で立て直しをはかっている。

道路を車で走っていると、ときおりガードレールなどに「支援ありがとうございます!」「NEVER GIVE UP!」「たくさんの想い、ありがとう」といった被災者たちによる感謝のメッセージが掲げられているのが目に入る。なんともいえないものが込み上げてくる。

やがて箱崎半島に着いた。今回われわれがボランティアをさせてもらうのは、箱崎半島にある小さな湾の奥でりんご農家を営んでいるお宅だ。この一帯も津波の被害を受けて、住宅のほとんどが押し流されてしまっている。
幸いなことに、りんご農家のお宅は高台の上にあったため、津波の直撃はまぬがれた。しかし、海側は瓦礫の山、背後は山に囲まれて、地震のあった日から2週間は完全に外界から遮断されてしまったという。その後、海側の瓦礫が撤去されてからも物資の不足は続き、遠方の親類などから食料を届けてもらって生活していたような状態だったとか。

海側の瓦礫はいまも重機による撤去が進んでいるが、問題なのはりんご畑だ。一段高くなっているうえに、瓦礫がりんごの木々の間に流れ込んでいて、撤去しようにも重機が入って来れない。そのため畑の瓦礫は人力で運び出すしかないのだ。だけど、その人手が不足している。そこで、われわれの手でこれをやってしまおうというわけだ。

この作業を通じて、津波による瓦礫というものを初めて間近に見た。無数の屋根瓦、家の外壁とおぼしきモルタルやコンクリの破片、割れたガラス、へし折れた材木。コンクリ片からは補強用の針金が飛び出ているし、材木からも錆びた釘がもれなく突き出している。軍手と長靴だけでは絶対無理。軍手の上に厚手のゴム手袋をはめて、長靴の底には釘の踏み抜き防止用の鉄板を入れないと、危険で仕方がない。

これらの瓦礫を、重機が入ってこれる一段下の場所までみんなでせっせと移動させる。ペンより重いものなど滅多に持たない漫画家さんたちが、黙々と汗を流す。わたしだってマウスより重いものなんか持たないが、この日ばかりは必死になって働いた。

瓦礫を掘っていると、いろんなものが見つかる。たいていはゴミとして処分してよいのだが、写真や手紙類、何かの証書や通帳、表彰状、免状といった思い出の品や、持ち主が判明しそうなものは捨てずに選り分けておく。泥まみれになっていても、洗浄してある程度までは元通りにする方法もあるから、迂闊に捨てるべきではないのだ。

何時間作業しただろう。途中から時間の感覚がなくなっていたので覚えていないが、夕方近くなってようやく瓦礫の撤去が一段落ついた。完璧とは言いがたいが、デスクワーク中心のメンバーにしてはそれなりの成果を上げられたのではないかと自画自賛する。
最後にりんご農家のお母さんからご馳走していただいた土地の名物“ざく汁”の甘みは、一生忘れられない味となった。
(とみさわ昭仁)

火曜日, 6月 7

本郷地区からの便り

6月7日、本郷地区コミュニティ消防センターに避難されていた小池さんと電話でお話をしました。20名近く避難していた人達も現在は仮設等に移り終え、避難所は解散になりました。ようやく小池さんも落ち着いてこられ、今後に向けて考える余裕もでてきました。津波で大きな被害を受けた街をどのように復興するかについては、高台を削り川下の低地を埋めることや、堤防を10m高くすること、さらにソーラーの街灯を設置することなどを、「復興街作り懇談会」において釜石市に提案し、具体的な話し合いを進めています。「皆さんの励ましが一番の力になりました。どうぞよろしく伝えてください」、また、「届いたデジカメを活用しています」とのことでした。引き続き、ノートPC、プリンタは募集しています。

本郷地区募集先一覧

team SAKE みつはる
投稿:team SAKE 足立

船越の記事と動画(朝日新聞)

朝日新聞6月7日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Asahi.com」において、閲覧することができます。

なお、サイトではワカメ漁の動画も見ることができます。

石巻で天然ワカメ漁再開 船や漁具など共同利用(動画有り)

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


石巻で天然ワカメ漁再開 船や漁具など共同利用

2011年6月7日21時38分


 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市雄勝町の船越漁港で7日、天然ワカメ漁が本格的に再開された。80隻以上あった船は5隻ほどに減ったため、船や漁具を共同で利用。震災後初めて海にこぎ出した高橋龍太郎さん(70)は「漁師は海に関わらないと生きていけね。今日は皆が生き生きしていた」。
.

船越の記事(河北新報)

河北新報6月7日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

天然ワカメ協業化に手応え 石巻・雄勝で収穫始まる

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


天然ワカメ協業化に手応え 石巻・雄勝で収穫始まる


宮城県石巻市雄勝町の船越漁港で6日、天然ワカメの収穫が始まった。船や漁具を共同で使用する初めての作業で、7日以降、収穫と出荷作業を本格化させる。
 初日の作業には県漁協雄勝町東部支所の有志でつくる「ホダデ協業部会」の会員ら約10人が参加した。小船2隻に6人が分乗し、港周辺の磯場に出漁。約4メートルの柄が付いた鎌で旬を迎えた天然ワカメを刈り取った。
 波が高く、水の透明度が低い悪条件にもかかわらず、約30分の作業で約500キロを収穫した。浜に1台だけ残ったボイル釜で湯通しし、塩蔵処理した。
 協業部会は7日以降、津波被害を免れた船3隻と修理した2隻を使って6月末まで漁を続ける。1日4~5トンの収穫を見込んでおり、石巻市の業者を通じ出荷する。
 協業部会の生出藤弥さん(55)は「試験操業としては収量は上々。肉厚で品質もいい」と手応えを感じた様子だった。


2011年06月07日火曜日

小原木中学校避難所 近況

6月6日、小原木中学校の方からご連絡をいただきました。
「チームSAKEさんには、いろいろ送ってもらって、とても感謝しています。
現在、中学校のグラウンドに仮設住宅が立つ計画もあり、また唐桑半島の方の団地などに移られた方もおり、避難所としては人数が減ってきています。
ただし、まだまだ仮設が足りず、抽選にも漏れた方がいっぱい(40~50人くらい)避難所には残っています。
梅雨時期に入る前に、毛布などの洗濯を進めたいのですが、柔軟剤がありません。洗剤はいっぱい来るのですが、毛布を洗う柔軟剤はなかなか届きません。チームSAKEさんはとても頼みやすいので、ついお願いをしてしまうのですが、とても感謝しております。」
とのこと。
地域の復興に向けた話し合いも、毎週日曜日に集まっているとか。
まだまだ長期的な支援が必要です。
気軽に頼める支援先。そんな関係が築けていることにうれしさを感じます。
みなさん、引き続き支援をよろしくお願いします。

小原木支援募集中一覧


チームSAKE 川手光春

月曜日, 6月 6

岩井崎の記事(河北新報)

河北新報6月6日版に、岩井崎の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿


 潮吹き岩などの観光名所で知られる宮城県気仙沼市の岩井崎地区で唯一、東日本大震災による津波の被害を免れた民宿が、避難者を受け入れ続けている。震災直後は近くの住民が約2カ月にわたって身を寄せ、現在は2次避難者が生活する。「かつての観光地に戻ってほしい」。民宿を営む家族は復興を願いながら、被災者を支える。

 避難者を受け入れているのは、海に突き出た岩井崎の先端部の高台にある民宿「崎野屋」。畠山正朋さん(73)が夫婦で1973年に始め、現在は長男夫婦と4人で切り盛りしている。
 震災が起きた3月11日、畠山さん夫婦は民宿にいた。近所の人と海を眺めていると徐々に波が引いた後、急激に水位が上昇した。民宿がある標高約11メートルの高台を囲むように津波が押し寄せ、一時孤島となった。周囲の家々は「バリバリ」と音を立てて壊れた。
 市中心部につながる市道2本は、橋の落下とがれきで寸断された。11日夜は民宿で、周辺住民や近くの県気仙沼水産試験場の職員ら50人がろうそくの明かりを頼りに一夜を過ごした。
 12日以降は宿泊客向けに仕入れていた米や海産品、野菜を使って連日食事を提供。救援の飲料水が届くまでは、井戸水を沸かして飲んだり、生活用水に使ったりした。
 畠山さんは「近所の人たちも食料や毛布を持ち寄った。ライフラインが止まっても協力して支え合った」と振り返る。
 避難者は徐々に少なくなったが、受け入れは5月18日まで続いた。電気や水道が復旧した後の同22日以降は、2次避難者16人が身を寄せる。
 自宅が津波で流された同市本吉町三島の元船員三浦照夫さん(67)、捷美さん(66)夫婦は別々に避難していたが、この民宿で一緒に暮らすことができた。透析の治療を受けている捷美さんは「バランスのいい食事ができるし、風呂にも入れる」と感謝した。
 岩井崎地区にあったほかの民宿10軒はほぼ全壊した。畠山さんは「仲間だった同業者がいなくなってしまい寂しい。早く再建して観光客でにぎわう岩井崎に戻ってほしい」と話している。
(田柳暁)


2011年06月06日月曜日

土曜日, 6月 4

小渕浜の記事(朝日新聞)

朝日新聞6月4日版に、小渕浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Asahi.com」において、閲覧することができます。

漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」

2011年6月4日15時31分


 津波で電気が途絶えていた宮城県石巻市小渕浜の県漁協表浜支所に3日夕、震災後初めて明かりがともった。環境NPOや市民団体が屋上に太陽光発電パネルを設置した。

 小渕浜では津波で多くの家が流され、支所の組合員だけで十数人が亡くなった。がれきの撤去など地域で支援活動をしていたボランティアが、太陽光発電パネルを無償で設置しているNPOと連携。3日、6枚のパネルが設置された。

宮城県震災復興会議の記事(河北新報)

河北新報6月6日版に、宮城県震災復興会議の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議


会議の席上、宮城県知事は三陸海岸での「職住分離」を進める復興方針を示したのに対し、複数の委員が「コミュニティ分断につながる」などとして反対意見を出しました。

私はTeam SAKEでの活動を通じて、集落に住む人々が、どれだけその土地とつながりを保ちながら生活してきたのかを実感してきました。また、集落コミュニティ内で維持されてきた顔の見える関係が、震災時にどれだけの人命を救ってきたかも、つぶさに見聞きしてきました。

集落に住む多くの人にとって、集落コミュニティは生活の基盤であるばかりでなく、人生そのものであると思われます。「宮城モデル」として発信されるものが、果たしてどのような形となるのか、集落の人々の現実からかい離した考えで策定されていかれないか、注意深く見守っていきたいと考えています。

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議


 宮城県震災復興会議(議長・小宮山宏三菱総合研究所理事長)の第2回会合が3日、東京都内のホテルで開かれ、県は住宅の高台移転などを盛り込んだ「県震災復興計画第1次原案」を示した。大津波に襲われた沿岸部で、住居と職場を分ける「職住分離」を進める県方針に対し、複数の委員が「コミュニティーが壊れる」と異論を唱えた。
 1次原案で県は、沿岸部の住宅や学校、病院などは高台に移転する方針を明記。港に津波避難ビルを整備し、水産関係者は高台から通勤する「宮城モデル」のまちづくりを構築するとした。
 公共政策に詳しい千葉大教授の広井良典委員は「職住分離を強調した原案には違和感がある。最近のまちづくりは、コミュニティー分断を懸念し、職場と住居をあまり分けない」と指摘した。
 建築家の岡田新一委員も「三陸沿岸の高台にどれだけの土地があるか疑問だし、自然破壊という次なる災害をもたらす恐れも多分にある。都市計画の基本を曲げてはならない」と再考を促した。
 日本総研理事長の寺島実郎委員は「海から離れたがらない漁業者もいる。職住分離と決めつけずに、地域で考えさせてはどうか。『安全な職住近接』という考え方もあっていい」と強調した。
 村井嘉浩知事は「遠く離れた場所に住み、何時間も掛けて通勤するわけではない。職場まで車で数分の近隣に暮らすが、津波の再来も想定し、場所は安全な高台という意味だ」と理解を求めた。
 第3回会合は7月13日に都内で開く。県は7月上旬に第2次原案を取りまとめ、8月下旬の第4回会合を経て、県議会9月定例会に最終案を提出する。


2011年06月04日土曜日

第7陣 船越(雄勝半島)

本日、京都に戻りましたチームサケ7陣のはるかです。

今回は、船越で集落の集会があったので、そこにお邪魔してきました。
時間があまりなかったのですが、1陣が一番初めに訪れた波伝谷(はでんや)という集落にも足をのばしました。
当時、道がなく孤立状態にあって、山づたいに自転車と物資を担いでいたころからは、考えられないくらい復旧が進んでいます。多くの方の力を感じます。
他にも、顔を出したい集落はあるのですが、前回に引き続き船越に集中した活動となりました。


船越で生活をしている方たちの一日は、(たぶん)4時半頃に始まっています。
(私らが起きる頃には、すでに皆さん起きて動いています。)
日の出とともに活動を始め、7時前に朝ご飯を終えます。

その頃、車で30名くらいの方が入ってきます。
みなさん、避難生活を送っておられる方たちで、船越には家も何もありません。
石巻や登米、仙台などから毎日通っておられる方たちがいます。
2時間も3時間もかけて通い、瓦礫の撤去、漁具の回収、大切なものを探したり、復旧作業をしたり、学校の掃除をしたりしています。(まだ見つからない人も探し続けています。)

避難生活が長期化するに従い、意思統一が難しくなります。
毎日作業に帰って来られている方は復興の思いが強く、確かめ合えるとしても、避難先で長く過ごされている方たちには、様子もわからず、必然的に難しいことだと思います。

船越では、集落内で避難生活を打ち切った4月10日を境に、皆がバラバラになってしまいました。
4月1日に集会をして以来、毎1日、15日は集落に集まる日に決めました。
毎回何名が集まるかは、当日蓋をあけるまでわかりません。

今回、私と大学生のボランティアのメグは集会の前日に入り、メグは、復興したい思いのある中心メンバーのイメージする将来像をイラストにしました。

集会当日の早朝サケメンバー3名が合流し、東京から建築士の方、宮城県内の建築科の大学生も来られました。

集落の復興を望む中心メンバーは、朝から特別な面持ちでした。
復興のイメージを伝える特別な日だったからです。
加えて、皆が船越に住みたいと思っているのか、住みたくないと思っているのかを問うても良い時期だと判断していたため、アンケートを用意していました。

私たちも途中から集会にお邪魔しました。
若い漁師さんたち、おっかぁたちは、皆後ろの方にいました。
小学校の3階は、とてもきれいになっていて、津波をかぶったとは思えない環境です。
そこに100名が集っていました。


ここに詳しく書くことはできませんが、集会は集落の歴史上、とても大切な一点にいるように感じました。
再びこの船越で皆でこころ豊かに暮らしたい一心で、また子や孫、その先の子どもたちのことを思って日々自主的に作業してきた中心メンバーの深くあたたかい想いが垣間見える度、とても力強くしなやかなやさしさに包まれ、胸が熱くなります。

一方で、残念な場面もあり、悲しさや悔しさで涙が止まらなくなることもありました。

あきらめている方たちもいるし、希望を持って動いている方たちもいるし、その間で揺れている方たちもいます。今回、着々と進んでいる部分、足りていない部分、夢の絵図を共有し、更に皆さんの気持ちは揺れていると思います。今まで見たどんな場面よりも、「人間」を見ている感じがしました。

次回の集会も多くの方が参加されると予想されます。



「津波の後、互いのイヤな面を見る場面もたくさんあった。でもそれは人のやったことじゃなく、津波のやったことだと考えている。あれからもう大きな津波はこない。これからは人の心も元に戻る。お互いを責めないでいきたい。またみんなで生きていきたいだけなんだ。」中里さんからの電話で


7陣はるか

木曜日, 6月 2

船越の記事(河北新報)

河北新報6月2日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起

<石巻・雄勝・協業化始動/釜一つ、まずワカメ/「人生つらい方に懸けるのもいい」>
 浜にたった1台だけ残ったワカメのボイル釜。石巻市雄勝町船越の漁師グループは近く、この釜を頼りに漁を再開する。「協業化の第一歩だ」。1日、リーダーの中里孝一さん(55)は力を込めた。
 北上川が注ぐ追波湾に面する船越はホタテやワカメの養殖が盛んだった。津波の襲来で、150隻あった漁船は3隻を残し流された。養殖施設や定置網も海に消えた。高台の一部を除き、住宅もほとんど破壊された。
 中里さんも刺し網漁に使っていた「第7孝丸」(4.8トン)など所有する3隻を失った。見通しが立たない古里での暮らし。三男はまだ高校生だ。「商船にでも乗って稼げば楽になる」。一時は廃業も考えた。
 地区外の避難所などに移り住む人が次第に増え、逆に気が変わった。「せっかくの人生。つらい方に懸けてみるのもいいかもしれない」。同級生で漁師仲間の生出藤弥さん(55)と話し合ううちに、協業組織による再出発を決意した。
 30~60代前半の漁師17人によるグループを「ホダデ協業部会」と名付けた。東北なまりと「伊達(だて)」を掛けた。養殖物のブランド化を視野に入れ、「キャラクターマークも決めてある」と中里さんは笑う。
 天然ワカメ漁は数日中に始める。協業部会のメンバーは残った道具をかき集め、釜の修理を急ぐ。年内の早い時期に養殖施設を共同で設置し、ワカメやホタテの養殖を再開させる考えだ。
(大友庸一)


2011年06月02日木曜日

火曜日, 5月 31

Team SAKEの紹介記事(両丹日日新聞)

両丹日日新聞5月31日版に、Team SAKEの活動紹介記事が掲載されました。

ウェブ上でも「WEB両丹」において、閲覧することができます。

被災地支援講演会:三陸海岸の孤立集落へ チームSAKE

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


両丹日日新聞2011年5月31日のニュース

被災地支援講演会:三陸海岸の孤立集落へ チームSAKE


 福知山市牧の市リサイクルプラザでは29日、市民団体の福知山環境会議(田倉徹也代表)の総会に合わせ、記念講演の講師の一人として府地球温暖化防止活動推進センターの川手光春さんが招かれた。

 「東日本大震災 被災現場での支援活動を通して感じたこと-今、私たちにできること」と題して、被災地やボランティア活動の様子を収めた写真をスクリーンで紹介しながら話した。
 
 川手さんは、復興支援をする京都を拠点とした「チームSAKE」主メンバー。行政などを通じた大規模、画一的な支援とは別に、集落それぞれの望みに沿った支援に力を入れている。
 
 2回にわたって、2週間以上、三陸海岸沿いの孤立集落に出向き、地元の人たちと対話を重ね、毛布や調味料など生活支援物資を届けるなどの活動をした。
 
 「復興が一番早かったのは自衛隊員や土木作業員らが連携しての道路、次に早かったのが電気で、瓦礫の中に電柱が建て直されているところも多い。水はいまだに不足しているところが多い」と話したあと、「瓦礫の粉塵、ヘドロの悪臭、続く余震など、現地に行ってみないと分からないことがたくさんある。被災地の人たちは明るく接してくれる人が多く、逆に勇気づけられることもある」と話した。
 
 「今後は、現地の産物を京都に持ち帰って売る経済支援や、集落の人たちに自立の意識を持ってもらうため、将来像の実現に向けての協力をすることも大切になると思う。支援の形はいろいろあり、刻々と変わってくる。現地でのボランティアや活動している団体への支援、義援金を送る活動、節電などに努め、地元の災害時に備えて自治会のつながりを強めることも忘れないでほしい」と話した。

月曜日, 5月 30

箱崎白浜の記事(毎日新聞)

毎日新聞5月30日版に、箱崎白浜の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

東日本大震災:大雨で集落孤立の恐れ 釜石・白浜地区

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


東日本大震災:大雨で集落孤立の恐れ 釜石・白浜地区


東日本大震災で被災した岩手県釜石市箱崎町の白浜地区では、お年寄りを中心に避難所から自宅に戻る人が出始めている。しかし、集落につながる唯一の市道は路肩が崩壊し、梅雨や台風による雨の影響も心配だ。地盤沈下のため高潮で冠水する恐れもあり、このままでは孤立化しかねない。【黒田阿紗子】

 東北地方は30日、温帯低気圧と前線の影響で風雨が強まった。箱崎半島の先端、白浜地区に向かう道路は立っているのがやっとで、道路には波が打ち寄せ水しぶきが立っていた。

 市中心部から約15キロ離れた同地区では115世帯のうち60世帯が津波被害を免れた。

 「やっぱし住み慣れた土地が一番。父ちゃんの体調もまず、いいみたい」。4月末、漁業の佐々木シゲ子さん(68)は肺がんを患う夫(77)とともに、いち早く地区の山手の自宅に戻った。

 津波で、半島は付け根部分まで壊滅状態となった。地区は孤立し、全世帯が自衛隊のヘリコプターで内陸の市民体育館へと避難した。夫は不眠を訴えるようになり、4月に入って口癖のように「帰るべし」と繰り返し、帰宅を決断したという。

 以前の暮らしとはほど遠い。2隻の漁船は流され、収入はほとんどない。最大の不安は半島を縦断する一本道の市道だ。道路に沿った広大な砂浜が津波でさらわれ、一部区間は道幅が半分に削られてしまった。地盤沈下で高潮になると通行できなくなる恐れがある。

 地区に店はなく、市道を通らなければ買い物にも行けない。避難世帯もあり、隣近所は留守だ。「夜は不気味なほど暗くて心細い」

 だが、市防災課の担当者は「代替道路や防潮堤の整備を検討する必要があるが、見通しは立たない」と話す。

 一方、佐々木寿子さん(40)は自宅は無事だったが、避難所暮らしを続ける。戻っても小学5年の長女(10)と4年の長男(9)が学校に通うには、一本道を避けられない。「冠水して家に帰れなくなったり、スクールバスが事故に巻き込まれないか心配」。地区外の仮設住宅の入居を申し込んでいる。

 県はこうした事情から、白浜地区の住民は被災していなくても仮設住宅の入居を認める方針だ。町内会長の佐々木孝郎さん(63)によると、子どものいる世帯のほとんどが仮設への入居を希望しているという。孝郎さんは「しばらくは年寄りが白浜を守っていかねば」と語った。

毎日新聞 2011年5月30日 11時16分(最終更新 5月30日 12時19分)

土曜日, 5月 28

小渕浜と牡鹿半島の仮設住宅の記事(毎日新聞)

毎日新聞5月28日版に、小渕浜の記事が掲載されました。
牡鹿半島の仮設住宅事情に関しても書かれています。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

仮設住宅:盆までに全員入居厳しく…宮城・沿岸部で遅れ

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


仮設住宅:盆までに全員入居厳しく…宮城・沿岸部で遅れ

 東日本大震災で被災した宮城県で、菅直人首相が掲げた「お盆のころまでに被災者全員の仮設住宅入居」の目標達成が困難になっている。集落維持や農漁業再生などを求める被災者の要望を受けて、三陸沿岸自治体が域内での用地確保に奔走し、7月中旬までの着工が難しい状況だからだ。県は内陸部に建設したい考えで、沿岸市町とは落差がある。着工の進捗(しんちょく)率は、100%に達した内陸自治体がある一方、三陸沿岸自治体は5割前後にとどまっている。【中尾卓英、宇多川はるか】

 ◇石巻など着工5割
 県内最多の8000戸が必要な石巻市の進捗率は5割を切る。市は今月上旬、必要戸数が供給を上回る市内3地区で、自治会などに民有地提供を依頼。「津波に浸水せず最低10戸が建設できる」「ライフラインが整っている」などの条件を満たした牡鹿地区の6カ所で今月中旬からようやく樹木伐採、切り土などの造成工事を始めた。

 約3200戸が必要な気仙沼市の進捗率は59.4%。津波と火災に見舞われた中心部では、公有地に建設する仮設住宅194戸に対し、1260件の申し込みが殺到した。

 市は6月末を目標に今後必要な約1320戸分の用地確保に駆け回るが、民有地提供を申し出た約130件のうち、建設条件を満たすのは1割程度。市は31日の臨時市議会で、さらなる民有地確保を目指し造成費と賃料支払いを提案する方針だ。県は民有地を使用する場合は無償を条件に挙げるが、土地確保には賃料が必要と判断した。

 菅原茂市長は「県は仮設住宅を内陸部に建て早く仕事を終えたいだろうが、私たちの使命は市民に住み続けてもらうこと。また、避難生活長期化に備え、クーラー設置など環境改善を図りたい」と話す。

 県は震災直後、仮設住宅が3万戸必要と試算したが、賃貸住宅入居や自宅補修する被災者が増え、今月19日に2万3000戸に下方修正した。お盆入居には1カ月前の7月中旬までに着工する必要があるとみている。

 県土木部は「梅雨や夏になると、避難所ではさらに体調を崩す人が出てくる。内陸部に土地が十分にあり、沿岸の市町にはできるだけ早く内陸部(の自治体)に引く判断をしてほしい」と話している。

 ◇自力で再生の地区も
 域内での仮設住宅用地の確保が難航し、着工進捗率が5割を切る宮城県石巻市。同市の牡鹿半島・小渕浜地区では、民有地への仮設住宅建設を渋る行政側を住民が説き伏せ、住民が確保した土地での建設を認めさせた。中心になった行政区長の石森政彦さん(69)は、海近くの高台で進む造成工事を見ながら「地元で生活再建する道筋が見えてきた」と顔をほころばせた。

 石森さんらは4月初旬、市に「現地を見に来てくれ」と訴えたが、なしのつぶて。高台にある耕作放棄地の所有者8人に「5年間、無償で土地を貸してくれないか」と声をかけて同意を得、自らも土地提供を決めた。仮設住宅100戸が建てられる用地を確保した。

 だが4月30日、牡鹿地区の区長を集めて初めての説明会を開いた市幹部は「県が民有地は駄目だと言っている」といったん断った。それでも石森さんらは説得を続ける。県の担当者が視察に来たのは今月10日。「この土地ならできます」。15日に樹木伐採が始まった。完成は7月末の予定だ。

 9割以上が漁業に携わる同地区。8割を超す130戸が流失・全壊した。住民は自らの力で食料や簡易水道を確保するなど漁師町の絆で避難生活の苦難を乗り切ってきた。「今は家族と離ればなれだけど、海からは離れられねえ」「家も漁具の入った納屋もすべて流されてた」。住民の声を聞き、石森さんは「亡くなった人のためにも、もう一度古里を再生させねば」との思いでやってきた。

 石森さんは地区の世帯構成を調べ、どんなタイプの住宅が必要かを市に説明するつもりだ。「地元に仮設住宅が建てられるめどがついて、やっとみんなが家族や仕事のことを考えられるようになってきた。これからだ」と前を見据えた。【中尾卓英】

毎日新聞 2011年5月29日 13時02分(最終更新 5月29日 16時00分)

木曜日, 5月 26

船越からの連絡

※船越集落とは、一刻も早く復興し、モデル地区になって、船越出身の方や、他の集落の方を元気づけられれば、と立ち上がり、全力で動いている漁師の村です。


雄勝半島、船越集落の中里さんとのお話から、みなさんと共有したいことをお知らせします。

漁師さんたちは少しずつ力を取り戻している様子です。

引き揚げた18隻の船のうち、15隻が直せば使えそうな状況だそうです。
船を見たときの漁師さんは、「血が騒ぐのを感じた。」と言っておられました。
また、フナムシが海に戻ってきた。思っていた以上に海がきれい。海産物がよく育っている。など、その都度、歓声を上げて連絡が来ています。
「おれたちは、やっぱり漁師なんです!海に出れるだけで、元気になる。」と、言っていました。

本日より、瓦礫の撤去や浜での作業が、仕事として雇われることになりました。
これにより29名が働くことができています。
光が見えてきているとのこと。

現在、ワカメの放射能の検査中ですが、もしも出荷できる状況であれば、いち早く(最短で6月1日)売り出して、船越出身の人たちを元気づけたい、他の集落の人たちの復興への希望になればとのこと。

昨日は、大量にワカメをボイルしました。
塩蔵ワカメのための塩が大量にいるとのことでしたが、それまで仕入れていた塩が仕入れられず、チームサケに連絡がありました。
サケメンバーの西尾がいろいろなところにかけあった末(それぞれ被災されていて自社の復興で精いっぱいな状況)、東日本ソルトの雄勝半島出身の方とつながり、動いていただきました。

その方は先週、雄勝に帰ってがっかりして戻って来たということで、船越がわかめをやるというので驚いていると話してくれました。

その後、すぐに漁師さんたちも動き、昨日、10tの塩が直接届けられました。

小学校の瓦礫の撤去も進み、きれいな部屋を一つずつ作っています。
内陸に避難している集落の方たちが帰ってきた時やボランティアの人が来た時の休める場所にするためです。

今日は、京都の大工のロバートさん(IDRO JAPAN代表)が、船越小学校に冷蔵庫と洗濯機と電子レンジを届けてくれる予定です。
冷蔵庫などがあれば、集落に帰ってこられた方たちも、より快適に過ごせることと思います。

船越には3名の大工さんがいますが、(350名の住民のうち)
皆、石巻市内に引っ張りだこで、集落内の大工仕事が全く手つかず状態です。
大工さんの訪問は短い時間であっても、力になると思います。

漁師さんたちも、修理などできるそうですが、時間のほとんどを浜での作業(漁具の回収や、瓦礫の撤去)や陸での作業(集落の人にとって大事なものがないか探しながらの作業です。また、まだ見つかっていない方も同時に探し続けておられます。)に費やしていているのが現状です。

船越の復興についてアドバイスなどの面で協力することを表明してくださっている建築士の方たちが出てきました。
心強いです。


同時に、報道を通じてわかることや、電話連絡などからわかることですが、集落の解散や集落からの反対の声などが大きくなってきています。

team SAKE 大関はるか



以下は、足立から記事の共有です。



足立です。

女川町は「集落の統合」による復興計画を町が示し、住民側が反発しています。
町長の「効率と安全を重視した」という言葉が、多様性や土地とのつながりなど多くの要素が考慮されない状況を鮮明に浮かび上がらせています。
集落にとって、いよいよ正念場です。


東日本大震災 高台移住計画に漁業の町から反発の声
毎日新聞 5月22日(日)20時57分配信

東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県女川町で22日、町の復興計画策定に向けた住民公聴会が始まった。町は沿岸部の住宅を高台に集約して住宅団地にする構想を説明。しかし、漁港から離れて暮らすことに住民からは一斉に反発の声が上がり、復興の道のりの困難さをうかがわせた。

 震災で、同町と石巻市にまたがって立地する東北電力女川原発は大惨事には至らなかったが、町沿岸部は津波でことごとく破壊された。町は5月初旬、安住宣孝町長らが中心となり復興計画案を策定。公聴会は22日は町内2カ所で開かれ、計約230人が参加した。

 町は公聴会で(1)安心・安全な港まちづくり(2)港町産業の再生と発展(3)住みよい港まちづくり--を柱にした復興の基本的考えを提示。内陸の高台に住宅地6カ所を造成して、沿岸に暮らす漁師らに移住してもらい、漁港は集約させるという計画を説明した。

 しかし、漁師ら住民側から「先祖代々の土地や家があるから漁へのパワーが出る」「育った土地を捨てるわけにはいかない」などの反対意見があがった。

 避難場所の秋田県から来た同町竹浦の漁業、鈴木誠喜さん(64)は「古里は忘れられない。他の場所に移るとなれば、希望がなくなる。長年暮らした、海が見える場所では駄目か」と町長に迫った。

 公聴会後、安住町長は「効率と安全を考えた案を出したつもりだが、反対する気持ちも分かる」と語った。

 公聴会は27日にも2地区で開催。町復興計画委員会は構想計画の中間答申案を8月上旬までにまとめるという。【石川忠雄、川上晃弘、宇多川はるか】

火曜日, 5月 24

小渕浜の記事(読売新聞)

読売新聞5月24日版に、小渕浜の記事が掲載されました。

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


「日本一」誓い養殖再開


宮城県石巻市小渕浜西出当の佐々木茂則さん(59)は今月に入り、ワカメの養殖を再開した。3月11日の地震発生直後、船を避難させるため沖に出ている最中に寝たきりだった母を津波で失い、入院中だった父も間もなく母を追いかけるように亡くなった。自責の念は消えない。だが、「両親が船を残してくれた。日本一のワカメとカキをまた作ろう」と漁師の誇りが失意を乗り越えさせてくれた。

 「海から上がった漁師は何者でもねえ。時間かかっても漁再開すっぺ」

 小渕浜地域でワカメを養殖する漁師約35人が集まった際、最年長の佐々木さんは、漁師を辞めようかと嘆く若い漁師に酒をつぎながらそう励ました。

 同地域は、ワカメやカキの養殖が盛んな漁師の町だったが、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた。収穫最盛期を目前に漁場が被災し、ワカメやカキはすべて津波に流された。

 地震発生直後、佐々木さんは船を避難させようと沖に向かった。

 妻の巳代子さん(58)に寝たきりの母かめのさん(89)を任せ、カキ養殖用の7・2トンの漁船に乗り、ワカメ養殖用の3・5トンの小舟を4隻つないで出港した。

 沖では漁師仲間と無線で安否確認をし合った。ラジオを積んでいる仲間から「10メートル以上の津波が来る」と聞いた。真っ暗な沖からは、港が火災で真っ赤に燃え上がっているのが見えた。15時間後、漁港に戻ると母の自宅も漁場もなくなっていた。

 近所の人から、巳代子さんがかめのさんを避難させようと車いすを用意している時、倒れた家具が出入り口をふさぎ、その直後に津波が来たことを聞いた。身長が1メートル60以上ある巳代子さんの目の上まで泥水があふれた。

 巳代子さんは、引き潮で足がぶつかり、割れた窓ガラスの隙間から、近隣住民に助け出されたという。かめのさんは既に息を引き取っていたが、その後の津波で流され、遺体はまだ見つかっていない。

 その10日後、高台の病院に入院していた父の久喜さん(83)も容体が急変し亡くなった。「ばあさんはさみしがり屋だから、じいさんを連れてったんだべ」。そう思うと涙があふれた。船を守って両親を助けなかった自分を責める日が続いた。変わり果てた漁場を見て、漁師を辞めることも考えた。

 だが、時間がたつにつれ、船を失った仲間が意気消沈しているのを見て、海で生きる者にとって船がないことは命を取られるのと同じだと思った。「漁師を続けろ」と両親が遺言を残してくれた気がした。

 佐々木さんは5月に入ってから毎日、午前8時から午後3時頃まで、海のがれきを撤去したり、ブイなど使える資材を回収したりと海の清掃活動をし、その合間を縫って、ワカメの苗造りに必要なメカブの採取も始めた。

 久喜さんの骨はまだ納骨していない。かめのさんの遺体があがったら、一緒に納骨するつもりだ。「その時はワカメをお供え出来たらいいべなあ」。佐々木さんはそう話した。

    ◇   ◇

 石巻市内で5月14日まで約9日間、取材した。身内を亡くし、避難所から通勤するタクシー運転手や市役所職員、水産加工会社員。彼らは口をそろえて「仕事をしている間は、悲しい気持ちを忘れられる」と語った。被災者の生活再建、そして心を前に進めてもらうためにも仕事の場の確保は重要だ。被災地から離れた場所でも、東北地方の特産品を購入するなどで雇用確保に少しでも貢献できるはず。息の長い支援を続けたい。(佐藤友紀)

(2011年5月24日 読売新聞)

日曜日, 5月 22

team SAKEの活動紹介記事(毎日新聞)

毎日新聞5月22日山口版に、team SAKEの記事が掲載されました。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

■被災地を歩いて:東日本大震災 本州の西の端から 新たなつながりへ期待 /山口

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地を歩いて:東日本大震災 本州の西の端から 新たなつながりへ期待 /山口


 震災発生の9日後、孤立集落に支援物資を運んだ京都大学大学院生、足立大さん(34)は京都に戻ると「被災者には長期的な支援が必要」との思いから、知人ら十数人と支援団体「TEAM SAKE」を発足させた。

 団体名は、物資を2度届けた宮城県南三陸町の馬場・中山集落の人たちから感謝の気持ちとしていただいたサケの切り身にちなみ、住民の一人が「(生まれた川で卵を産む)サケならば、戻ってきてくれるだろう。長い付き合いをしていきたい」と名付けてくれた。

 団体の活動内容は、思うように支援が行き届かない小規模避難所へ、購入した物資をトラックで運搬することだ。被災地の風土や被災状況によって、異なる必要物資を事前に聞き取り、その情報を同団体ブログ(http:/teamsake.blogspot.com/)で掲載。それを見た全国の人たちから届けられた物資も運んでいる。

 チームのまとめ役の会社員、大関はるかさん(31)は支援の在り方について「こちらが『支援をしてあげる』という姿勢では、被災者は受け入れてくれない。支援する側、支援される側という双方の壁を越えなければならない」と語る。

 そのために、1度訪れた避難所には継続的に赴き、対話を通じ、互いに感謝し合えるような関係を構築。被災地を支援したいという人たちと被災者のニーズをブログで仲介することで、被災地とその他の地域との新たなつながりも築いていきたいと考えている。

 今回、私が連載で被災者の状況や支援者たちの声を伝えたのも、読者と被災者との間にも新しいつながりができるきっかけになればとの思いからだった。連日、新聞やテレビ、インターネットで被災地の様子が伝えられるが、一人でも多くの人が報道をきっかけに被災者に思いを寄せ、そしてあと一歩何か踏み出してもらえたら、うれしい。それが「伝える」ことをなりわいとする記者たちにとって本望だと思う。

   ◇  ◇

 今連載で取材した東北の皆さんへのメッセージを受け付けています。なお被災した皆さんの負担を考え、「返信不要」との旨で送らせていただきます。ご了承ください。はがきで〒751-0823 下関市貴船町3の1の2 毎日新聞下関支局へ。【尾垣和幸】=おわり

〔山口版〕


毎日新聞 2011年5月22日 地方版

金曜日, 5月 20

船越の海


船越集落の中里さんによると、今朝ほど船で海に出て箱めがねで覗いてきたところ、海底の様子は地震前のように綺麗で、思っていた以上にワカメが育っており、アワビ、ウニ、ホタテ、ひじきなども見られ、早速アワビなどを獲ってきたそうです。

船越はじめ雄勝半島の北東側は太平洋に面し、北上川から供給される養分で成り立つ生態系のため、養殖だけでなく天然海産物が豊富だそうです。

やはり、海の自然回復力はすごいです。


出荷するには放射能検査を受けなければならないので、それはまだ少し先になりますが、海の方は順調だ、あとは人さえ戻って来られるようになれば、とおっしゃっていました。


team SAKE 足立

木曜日, 5月 19

雄勝半島・牡鹿半島で、集落消滅が進んでいます

船越集落の中里さんから、「雄勝の水浜・分浜・波板の3部落が解散した」との連絡を頂きました。集落としての復興をあきらめたということを意味するので、とても残念なお知らせです。
また、以下の報道にある全戸が被災した牡鹿半島の大谷川浜はじめ、この地域には非常に厳しい状態にある集落が他にも多数あります。

■「元には戻らない…」 残ったのは5人だけ 住民移転で集落消滅の危機(msn産経ニュース)


雄勝半島・牡鹿半島周辺では、現在集落の消滅が進行しつつあるようです。いよいよ始まったか、という感じです。
このような状況を少しでも食い止めるためにこれまで動いてきたこともあり、予期してはいたことですが、無力感で一杯です。

各集落がその場所に存在し、人々がそこで生活されてきたからこそ伝わってきた知識・文化や自然との接点の一つ一つが失われていくことが、残念でたまりません。生物が絶滅していくのと同じような感覚です。

こうした中で、船越のように自主的な復興の動きがあることは、非常に力強いニュースですし、現在揺れ動いている他の集落に与える影響も少なくないと考えます。

また、復興の動きを小渕浜や船越だけに留まらせないよう、SAKEの各メンバーも至急動くべき時だと思います。このことを外部に発信していくことは、「モデルケースになろう」という中里さんらの意気込みとも通じるものがあろうかと思います。

現時点で大切なのは、コミュニティーとしての集落住民のつながりの維持だと思います。家が被災した状況でこのまま集落に住み続けるのは現実的に無理だとしても、条件さえ整えば戻ってこられるように、復興までしばらくの間、どのようにつながりと気持ちの維持をしていけるかが、各集落が生き残っていく上での課題でしょう。被災前の時点で集落に住んでいた方々は、本当は都市の一無住人としての暮らしを望んではいないはずですから。

私は第6陣での船越訪問時、中里さんらの「船越でやっていきたい」という気持ちを後押しする形で「船越で復興すること」の大切さを説明したつもりですが、今後は各集落での対話の仕方も「必要なものありませんか?」という聞き出し方から、「集落で暮らしていくためにどうしたらいいか」を汲み取りながらそれを勇気づけていけるような、次のステップに変えていきましょう。


team SAKE 足立

船越の記事(河北新報)

河北新報5月19日版に、船越の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。

「古里にカエル」夢見て/海産物店経営・三浦慶市さん(59)=石巻市雄勝町

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


「古里にカエル」夢見て/海産物店経営・三浦慶市さん(59)=石巻市雄勝町


◎守り神に願掛け店再開

 店の前に鎮座するのは巨大なカエルの石像。背中にかわいらしい5匹の子ガエルが乗っている。
 「全部で6匹いるから『ムカエル』。お客さんをムカエル、幸せをムカエル…。開業の時に縁起担ぎで造園業者から買った、店の守り神なんだ」
 石巻市広渕に開いている海産物店で、経営者の三浦慶市さん(59)が表情を緩めた。このカエルが、3月11日の東日本大震災で折れそうになった心を励ましてくれたのだという。
 広渕は仮設店舗。三浦さんは旧宮城県雄勝町の石巻市雄勝町船越で生まれ、地元の浜で25年前から「みうら海産物店」を妻寿美子さん(56)と2人で営んできた。
 三陸の海で採れたウニやホタテ、アワビを水槽に入れて販売し、自宅に併設した工場では昆布やワカメなどを加工、パック詰めにして、各地に配送してきた。豊富な種類と新鮮さに、北海道や関東からも注文が来た。
 地震に襲われたのは、三浦さんが旧雄勝町の外へ出て配達をしている時だった。約130世帯の船越地区は、高台を残して全域が津波にのまれた。三浦さんの店や工場、家もすべて流され、従業員6人のうち1人が犠牲になった。

 生活の場を失い、住民は次々と旧雄勝町から移っていった。高齢者が多く、再起する気力さえ失う人もいた。地道に積み重ねた財産をすべて奪われた三浦さんも一時廃業を考えた。
 その時、「商売を続けるなら、空いている土地を貸そう」と古い友人が声を掛けてくれた。船越から30キロほど離れた広渕地区の山あいだった。
 「裸一貫で出直すことに不安もあった。ただ、妻も従業員も『やるならついていく』と言ってくれた。一人でも力になってくれる人がいる限り、頑張ろうと思った」
 再出発の場所にプレハブ小屋やコンテナなどを運び入れ、仮設店舗と商品の保管倉庫にした。
 被災を免れた海産物加工品のほか、他地域からも商品を取り寄せ、5月初めに何とか店開きした。
 船越の住民としては第1号の営業再開だった。

 創業以来、店の前で商売を見守ってきたカエルの石像は、トラックで仮設店舗の前へ運ばれた。
 津波で10メートルほど流されたが、ほぼ無傷だった。初心にカエル。「商売を始めたころの熱い気持ちを思い起こさせてくれた」と三浦さんは言う。
 「海のものは、海の近くで売ってこそ価値がある」が信念。旧雄勝町から避難し散り散りになった住民と、一日も早く古里に戻れる日を夢見る。
 そのため「漁業者の仮設番屋や、雄勝硯(すずり)など特産品を売る商工業施設を旧町内の港に建てたい」。公的制度を活用し、復興のシンボルにもなる事業の要望書をまとめ、三浦さんは先日、地元商工会に出した。
 「船越は、磯の資源が豊富で本当にいい所なんだ。いつも願を掛けている。必ず『古里にカエル』って」。震災前と少しも変わらない「守り神」に目を細め、慣れ親しんだ海を心に描いた。
(成田浩二)


2011年05月19日木曜日

水曜日, 5月 18

箱崎の記事(朝日新聞)

朝日新聞5月18日版に、箱崎の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「asahi.com MYTOWN岩手」において、閲覧することができます。

自慢の鼻で6人発見…見習い警察犬クララが不明者捜索

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


自慢の鼻で6人発見…見習い警察犬クララが不明者捜索

2011年5月18日


警察犬を飼う岩手県釜石市箱崎町の金野伸明さん(61)は、大半の住宅が倒壊した地区で仲間と一緒に警察犬による行方不明者の捜索にあたってきた。がれきの下から6人を見つけた。「犬の鼻が大いに頼りになりました」と金野さん。

 金野さんは3月11日、勤め先から車で帰宅途中に迫ってくる津波を目にし、すぐに車をUターンさせて難を逃れた。高台にあった自宅は無事だったが、県内の友人宅へ避難した。

 275戸の同地区で残ったのは高台の住宅45戸だけ。16日現在、死者49人、22人が行方不明者だ。

 金野さんは震災5日後から捜索を始めた。3月18日からは県内をはじめ青森県からも駆けつけた仲間12人の警察犬も加わった。

 金野さんは1983年から嘱託警察犬の指導手として警察の捜査や不明者の捜索などに協力してきた。今回は5歳の警察犬を亡くしたばかりで、訓練中のシェパードのクララ(メス、1歳)を使った。

 「捜せ」と命じると、がれきのすき間から中に入り、人のにおいをかぎつけると、ほえたり、前脚で地面をかいたりする。その場所には「犬」とスプレー塗料で印をつけ、後から自衛隊に捜してもらった。

 旋盤工として40年余り勤めた鉄工所が被災し、解雇された。体調を崩した町内会長の代行として自衛隊の捜索に立ち会い、家族への連絡にも携わった。近く短期雇用のがれき撤去にも出かける予定だ。

 金野さんは「警察犬の仲間やクララをはじめ多くの警察犬に助けてもらい感謝しています」と話した。(三上修)

名振の記事(朝日新聞)

朝日新聞5月18日版に、名振の記事が掲載されました。

ウェブ上でも「Asahi.com My Town 大阪」において、閲覧することができます。

被災地に漁船寄贈 堺の会社員ら「すぐ役立つように」

team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地に漁船寄贈 堺の会社員ら「すぐ役立つように」

2011年5月18日


東日本大震災の津波で漁船が全滅した宮城県内の小さな漁港の復興を願って、大阪府堺市南区の舞台美術製作会社員上田宗広さん(46)らが中古漁船2隻を地元漁協に贈った。被災地の海で、流された船の回収やがれき撤去の準備作業などに活躍し、うち1隻は「希望」と名付けられた。

 上田さんは震災直後の報道で、連絡船が津波で流されて宮城県気仙沼市の島が孤立したことを知り、心を痛めた。「被災地には船が必要だ。漁船を贈って復興に役立ててほしい」と考え、友人で船の取引に詳しい自営業吉田典弘さん(39)=東京都江戸川区=に相談。吉田さんの知人で船の販売や廃船処理を手がける「石澤金型製作所」(埼玉県越谷市)取締役の石澤昇さん(56)と3人で、同社が所有していた全長9メートルと10メートルの中古船2隻を被災地に届けることを決めた。

 2隻のうち1隻はエンジンを取り換え、1隻は塗装を新しくした。船の代金も含め約100万円の費用は3人と石澤金型製作所が負担する。上田さんは「義援金より、漁師さんたちの生活の再建にすぐに役立つことがしたかった」と話す。

 吉田さんと石澤さんがかつて勤務したことがある宮城県内に贈ろうと県漁協(石巻市)に相談。津波に襲われ1隻も漁船が残っていない石巻市雄勝町名振の雄勝町東部支所名振支部と山元町の山元支所を紹介された。

 4月13日、1隻を陸送で名振漁港へ運んだ。リアス式海岸の漁場はアワビやウニが豊富でワカメの養殖も盛んだったが、約100隻の漁船は全滅。92軒あった民家も津波で13軒しか残らなかった。

 避難所で暮らす同漁協名振支部長の大和久男さん(56)は「震災後、海の様子を見に行くこともできなかったが、いただいた船でワカメ養殖のイカダがあった場所を見に行ったり、沖に流された船や養殖の浮き球を回収したりできた。船には『希望』という名前を付けました」と話す。

 もう1隻を贈った山元支所がある同町磯浜地区も津波に襲われ、約150軒の集落のうち残ったのは高台の数軒だけ。遠浅の海は特産のホッキ貝の漁場だが、約40隻あった漁船は流され、港も使えないため、船は隣町の亘理町の港に4月23日に運んだ。

 被災し、アパートで仮住まいをする同支所運営副委員長の大和郁郎さん(64)は「どこに頼っていいかわからなかったのに、知らない人から支援してもらってありがたい」と話し、「贈られた船を使い、海のがれきを撤去するため、がれきのある場所に標識を立てた。漁が再開できたら、とれた魚でお返ししたい」。

 宮城県によると、県内に142ある漁港がすべて被災し、漁船の9割にあたる約1万2千隻が津波で流された。上田さんは「漁師さんたちが海の幸を出荷できるようになるまで、支援を続けたい」と話す。現在、5隻の漁船を贈る準備を進めており、活動資金の支援を募っている。問い合わせは上田さん(090・6204・6881)へ。(八田智代)

月曜日, 5月 16

第6陣 船越集落(雄勝半島)

こんにちは。6陣のはるかです。
雄勝半島の船越集落の帰り道です。

今回船越へ赴いたのは、現在、船越の中心人物である中里孝一さんからの電話があったからでした。
船越に残っている者はここを復興していきたいと思っている。夢物語みたいに聞こえるかもしれないけれど、本気でやっていきたいと思っている。一度出ていった者も徐々に帰ってきている(又は復興する見込みがあれば帰って来る人も多いだろう)という状況・心境にある。
船越が一つのモデル地区となるような意気込みで構想実現に向けて動いていきたいので、人脈やアイディアなど力を貸してほしい。とのことでした。


船越へは三枝つよしがリーダーのチーム(第3陣、第5陣T)で何度か訪れています。が、今回赴いた3人は初船越でした。
急を要している点、サケに期待をかけられた(おそらく)重大で代え難いプロセスの始まりであった点から、今回の訪問を急遽決めました。
環境経済学が専門で、人と自然の有機的なつながり(と言う意味の「環境」)を考えている足立と、都市・地方計画(まちづくり)を仕事にしている松本さんと、割と顔が広く、仕事場が省エネや自然エネルギーをやっていて、自分自身ワークショップをする機会があるはるかの3人でした。

訪問したことのあるメンバーから聞いていたとおり、中里さんは、遠洋漁業をしていた際に世界中で得た広い視野と、漁師としての誇り、みんなのことを心底思うやさしさを持ち合わせた 魅力あるリーダーでした。


集落全体を丁寧に丁寧に紹介してくださいました。

ほとんどの家が壊滅状態で、小学校も3階まで浸水、水産加工場(仕事場)も壊滅状態でした。
ですが、350人の集落で犠牲となったのは9名で、多くの方が助かりました。
最大の津波の後の引き潮の時に、若い人たちが動けずにいた高齢の方を助けたり、山の上の神社に避難された方のところへ、毛布や食料を届けたりされました。
避難所の一つだったところの鍵を持っていた方は、とっさに避難所としては低すぎると判断し、鍵を開けずにまだ高いところへ行けと叫ばれたそうです。
一方で、もう一カ所の避難所であった曹洞宗のお寺の和尚さんが最後までお寺に残り、流されてしまいました。
和尚さんのことを、みなさんは普段からとても誇りに思っているようでした。幼いころの病気で言葉に障害があって、決してお経を読み上げるのは上手ではないかもしれないけれど、心のこもったすばらしいお経だったと。奥さんとお子さんもそれぞれ障害があって、今は遠くに避難しており、本堂や庫裏が流されたままになっている。なんとかしてお寺のための義援金を集めて、お寺を復興し、呼び戻したい気持ちがある。自分たちにとってはここが唯一のお寺だから。と話されました。


息子さん夫妻とお孫さんを失われた方は、「最初は悪さした海をみたくねぇと思ったけど、息子らと同じ風にあたり、同じ季節を感じて生きていきてぇから、今は船越の復興に全力を注ぎたい」と、「これまで以上の生活は望まない。失って初めてわかった家族、船、家、仲間の大切さ。船越の豊かさ。なんでもねぇ生活がどんだけありがてぇか。それをまたやりてぇ。にくい海だけど、俺らはその海の恩恵を預かってきた。また海と暮らしてぇ。」とお話してくれました。

ほかにも船越の湾がどれほど豊かであるか、一年のお仕事の移り変わりを聞いてわかりました。ふつう集落の中には同じ名字の方が多いですが、ここは色々な名字の方がいます。それは豊かな漁場で多くの人が入ってきた歴史があるからとのことでした。
湾の向き、北上川、森と沢の関係で豊かな漁場を作っていることも知りました。


これまでも様々な経験をしてきたけれど、海の自浄能力はすごい。海は必ず復活する。とのお話も印象的です。

みなさんの構想や どんなに船越の自然が豊かで どんなに人のつながりが豊かで どんなに船越である必要があるのかを伺った後、私たちの方から、仮ですが、それらを第三者に説明できるような図や形にして発表しました。

それまで2日間、私たちに集落全体の話をしたり、失った方のお話をしたりする中で、たくさんのつらい出来事を話されても、とても落ち着いた中里さんでしたが、足立が図の説明をしながら、みなさんの思いはこういうことですか?と確認をしている間、中里さんは大粒の涙を流しておられました。


今後、もっと多くのみなさんのご協力が必要になります。
船越集落のこと、頭の片隅に置いておいてください。


team SAKE 第6陣 はるか・足立・松本

日曜日, 5月 15

team SAKE第1陣の活動紹介記事(毎日新聞)

毎日新聞5月15日山口版に、team SAKE第1陣の記事が掲載されました。
まだチーム名をつけずに活動していた時期なので、記事中で「team SAKE」という呼び方はされていません。

ウェブ上でも「毎日jp」において、閲覧することができます。

被災地を歩いて:東日本大震災 顔見える支援の大切さ痛感 /山口


team SAKE 足立


~~~以下掲載記事~~~


被災地を歩いて:東日本大震災 顔見える支援の大切さ痛感 /山口


 岩手県に派遣された直後、私は震災で外部との交通・通信手段を断たれた孤立集落に支援物資を運ぶ京都大学大学院生2人に同行取材した。

 同大サイクリング部に所属する足立大さん(34)と伊藤栄俊さん(25)は「車では行けない場所に自転車で物資を届けよう」と軽トラックにマウンテンバイクと物資を積み、京都市を3月20日に出発。21日には宮城県南三陸町の孤立集落に入り、米やみそを届けていた。22日、岩手県一関市で2人と落ち合い、トラックに同乗して同県陸前高田市や大船渡市を巡回。その夜、トラックで南三陸町の泊崎半島にある馬場と中山の二つの集落に到着した。

 両集落は約200世帯が津波で流され、小さな公民館に95人が避難。車で着くことはできたが、津波で海沿いの道ががれきでふさがれ、物資の集まる隣の集落へ向かうには細くて急勾配の山道を通らなければならなかった。電気も復旧していなかった。震災後、仙台市から帰郷してきた女性(46)が、被災者支援の過労で倒れたが、電話を使えず、救急車を呼べなかった。女性は数日後、体がけいれんし、亡くなったという。避難所の責任者で漁師の阿部倉善さん(61)は「神様仏様に祈っても仕方ねえ状態だ」と怒りと悔しさが混じった声で話した。

 足立さんたちがトラックから米やみそ、ガソリンの入った携行缶を降ろそうとすると、被災者たちは「本当にありがたい」と満面の笑みを浮かべ次々と集まってきた。何よりも外部から人が来たことに「よくこんな所まで来てくれた」「この集落を忘れねえでくれ」と喜んだのが印象的だった。

 帰りのトラックの中で足立さんは「被災地が広範囲に及ぶから、支援が遅れる地域もある。中には『自分たちは忘れられた存在』と思う人も出てくるだろう。支援をする人、受ける人が、互いに相手のことが分かるような、顔の見える支援が大切だと思う」とつぶやいた。

 被災地の復興には数年、数十年の長い年月を要するだろう。被災者たちの顔が見えれば支援も長く続けていけるのではないか。「顔の見える支援」の必要性を感じた。【尾垣和幸】=随時掲載=

〔山口版〕

土曜日, 5月 14

team SAKE 5陣、6陣の報告会

5陣と6陣の報告会を開催します。
今回はお寺の本堂でさせていただきます。

5陣では13名が3グループに分かれて活動してきたため、報告したいことも山のようになりましょうけど、参加者のみなさんとのやりとりも重視した報告のスタイルを考えています。
船越集落を訪れ帰ってきたばかりの6陣の報告も同時に行います。
お誘い合わせの上、ぜひいらしてください。
転送・転載歓迎です♪

■日時:5月21日(土) 12時からDVD上映 13時から15時半頃報告
■場所:京都市上京区 乾窓院(けんそういん)本堂 (仁和寺街道御前西入る北側)
■参加費:500円(会場へのお供えとして)

※12時からNHKの馬場中山集落に関する特集番組のDVDの上映をします。
 馬場中山集落は、第1陣で足立と伊藤ヒデが鮭の塩漬けのお頭をいただいたところ、チームサケ(鮭)と名付けてくれたくれたところです。
 第1陣(かなり状況が厳しい頃)の足立らが写っていますし、その後の変化がずっと継続して撮影されていて、興味深いです。
 私たちがお世話になっている方たちの声や姿を見聞きしていただけると思い、企画します。

※おひるごはんを食べながらDVD、オッケーです。 船越ごはんパンやスイーツは有料です。
※報告の始まる前と終わってから、長野たかしさん(元「五つの赤い風船」ベーシスト)と森川あやこさんの歌、あります。投げ銭歓迎です。

 ■アクセス
①JR山陰線「円町」駅より徒歩12分
②京都駅より市バス205系統 40分
③阪急西院駅より市バス203&205系統 15分
④京阪三条駅より市バス15系統 30分
・②③④いずれも「大将軍」バス停より東へ徒歩4分 山城温泉の東隣

 ■当日連絡先
090-3672-6327 三枝剛 (みえだ つよし)

 ■お問い合わせ
チームサケ teamsake311(あっと)gmail.com



投稿 大関はるか

日曜日, 5月 8

5月7日 5M組 板橋(泊崎半島)でのこと

■板橋(歌津地区・泊崎半島)


馬場中山から京都へ帰ろうとしていたところ、「水求む。避難民11名、犬1匹」の看板を発見。
物資も若干残っているので、急坂をあがり、様子を見に行くことにした。
坂道を上がると一軒の家があり、おじさんが出てきてくれた。
水は持っていなかったため、違う水ならありますよ、と佐々木酒造さんに提供して頂いた京都のお酒をお渡しすると、大変喜ばれた。他の方も出てこられたので、残りの調味料、日用品などを見てもらった。
買い物が難しかったり、支援物資が少なくなってきているせいもあり、調味料や長靴、ゴム手袋などを必要とされ、とても喜ばれた。

旦那さんは、差し入れたお酒をちょびちょび味見しながら、いろいろとお話してくれた。
カジキマグロの漁をされていること。300キロを超える魚の写真を携帯で見せていただいた。
地震の時は、当日から3日間、沖に出て船を守ったとの事。瓦礫が海にも流れてきて、それを交わすので、3日3晩、寝ずに船を守ったとか。
とても楽しく笑いながら対応してくれたが、「こんなに笑ったのは被災して初めてだ」とおっしゃっていた。「もう立ち直んなきゃな。」とも。
奈良県警が、見回りに来てくれて、よくしてくれた。交代で奈良に帰るときに、持っていた食材をすべて差し入れしてくれた。長靴プロジェクトのブログで見てね。
一緒に出てきた中で、ブログをつづっている若い女性もとてもハイテンションに対応してくれた。
その女性の小さな娘さんが食材の中に紫ゆかりを見つけて放さなかった。女性に聞くと、娘さんはゆかりがとても大好きで、ご飯はゆかりをかけるとよく食べてくれるとの事。とても喜んでくれた。
この隙間の支援が、とても重要だと思った。

訪問後すぐに、ブログの中で、TeamSAKEのことを紹介してくれた。
陰陽なる毎日(外部リンク)

翌日、「電話で京都にちゃんとついたか?」とわざわざお電話いただきました。京都まで帰ること気にかけてくれていたのですね。とってもありがたいことです。

team SAKE みつはる、かわた、ひで、にしむら
編集 team SAKE 足立

土曜日, 5月 7

5月7日 5M組 馬場中山


現在、チームSAKEでは、助成金の申請を準備している。一方で馬場中山が独自に申請したら良いのではと考えており、その旨を代表者にお話した。
「今、率直に欲しいのは、船!集落では一艇も残っていない。
でもその前に海の中の瓦礫を撤去しなければ、船も入れることはできない。
ユンボ重機は2ヶ月間無償で借りることができている。今日も休日だが、休ますのがもったいないので、重機を使った作業をしてもらっている。
助成金の申請自体は、中山集落だけでは決められないので、馬場集落とも相談し、みんなで意見を出し合ってみる。」との事。申請をチームSAKEでも協力する旨伝えた。

「馬場中山には、多くのボランティアがやってきている。そのおかげで成り立っている。今までは、まったく行政に頼らずにやってこられた。しかし、仮設住宅の件など、これからは行政にもお世話になりながらやっていくしかないと思っている。」とのこと。

その後、望遠鏡を希望していた方にお会いでき、簡易な望遠鏡をお渡しした。
海を見て、何が浮いているのか確認したいとの事。簡易な望遠鏡でもある程度見られたが、実際欲しいのは、それ(10×25倍)よりも3倍くらい見える普通の望遠鏡とのこと。
以前、舟がひっくり返って浮かんでいたのが見えたが、今では波の関係で移動してしまって、それがどこにあるのかなどを確認したい。海に浮かんでいるものが見られると、引き上げるときなどに役立つとの事。
※支援して頂ける方は、必ず以下のページを確認しコメント欄にご記入の上、お送りください。余分な物資が送られて現地に迷惑がかからないようにするため、ご協力下さいますよう、よろしくお願いいたします。馬場中山支援募集中一覧

本日7日に仮設住宅の情報などが町の方から出されたとのこと。その前に、チームSAKEから提供した情報
(仮設住宅に関すること)を元に、みんなで話し合えたのは大きい。この地域(仮設でも)に残りたい世帯、すぐに仮設に入りたい(すこし遠くても)世帯などあり、馬場中山に予定されている仮設個数よりも、残りたい世帯の方が少なそうなのが分かったりして、いろいろな状況が確認できてからの仮設の状況発表なので混乱は避けられそうとのこと。

情報が役に立っていることがとても嬉しかった。

チームSAKE 5M みつはる

お伊勢浜の写真

岩井崎近くのお伊勢浜の震災前と震災後の写真を、現地在住の小野寺清人さんより頂きました。
小野寺さんいわく、「津波は全ての命を持って行ってしまった。海には何にもいない。岩にへばりついていた貝すら持って行ってしまった。」「お伊勢浜は遠浅で穏やかな海水浴場子供達には最後の海でした。自分は大人になってからも恥ずかしながら毎年毎年子供のように泳いでましたよ。是非是非このきれいなお伊勢浜をTeam鮭ブログにのせて下さいね。」とコメントを付けて送っていただきました。

岩井崎の西側に位置するお伊勢浜は、環境省「快水浴場百選」にも選定された遠浅の美しい海水浴場です。夏には多くの家族連れや若者で賑わっています。
お伊勢浜、岩井崎周辺には、冬になるとセグロカモメ、シノリガモなど様々な冬鳥が北国から飛来してきます。特に天然記念物に指定されているコクガンの国内でも数少ない越冬地でもあります。
※参考情報気仙沼市公式WEBサイト

以下小野寺さん撮影写真。とてもきれいな海水浴場でした。




以下、津波後の写真。




team SAKE 足立
追加編集 みつはる

5月7日 5M 岩井崎 3度目

わかめ養殖家Hさん宅を3度目の訪問。歓迎してくれた。
裏山が瓦礫の集積場となっており、第4陣できたときよりもたくさん積み上げられていた。


ちょうど訪ねてこられた親戚のOさん夫婦に出会う。
この夫婦の旦那Oさんは、近くの海水浴場の前で車の会社を経営していたが、津波で流された。
地震のときは工場の2階に上がれば津波は免れると思っていたが、揺れがあまりに大きいため、子どもの通う学校が心配になり確認に行ったが、すでに子どもは他場所に避難していた後だった。その帰りに津波を見て、急いでUターンし、そのまま車で逃げた。逃げる途中、道端には歩いている人がいたが、助ける余裕がなかった。たぶん、あの人たちはさらわれただろう。
お酒を飲まないとやってられないとのこと。
津波前と津波後の海水浴場の写真を撮影しておられ、ぜひブログなどで紹介して欲しいといってくれた。サケメールに送っていただいた。(内部リンク)

わかめ養殖家Hさんは、「今度は夏休みに来い。家は泊まれるからよー。」と言ってくれた。
半島の先端にある横綱像(地元出身の横綱を記念したもの)は、津波を受けても倒れず、そのまま残った。さすが強い横綱。ぜひ見て帰ったらよいよ。といってくれたので、帰りによることした。岬にたたずむ横綱像は、力強く、もの寂しく感じた。


チームSAKE 5M みつはる