5月3日 船越半島 小谷鳥 Kさん宅
お宅を訪れたのは9時前。第四陣とKさんの記念写真をお見せすると笑顔に。「よってって」というお言葉に甘えて、薪ストーブがあたたかく燃える部屋で炬燵にあたらせてもらいながらお話をする。薪ストーブの横にはしいたけが乾かされていた。
K家はうに、あわび漁やわかめの養殖を生業にしていた。今年はわかめも良作、あと一週間で収穫という時に地震がきた。
今朝は5時半に起床したが、よく眠れなかったという。内陸に住む娘から一緒に住もうと言われているが、津波の被害を見に行ったきり帰ってこない夫や息子が見つからないので、ここを離れるかどうか・・・・悩んでいる。200年以上続いた先祖代々の家。ご先祖様のこと、夫や息子のことを思うと、と揺れる胸中を話される。この家はしっかりしていて、地震でもあまり揺れない、とも。Kさんは宮古からここに嫁に来て50年以上がたつ。煤で黒くなった部屋を、孫たちは黒い黒いという。冬には年配の方がここに集まっておしゃべりをしていたそう。だが、その方たちもだいぶ流されてしまった。
話の途中で「まっこ」という犬が部屋の中に上がってこようとする。「あの犬はここの犬ですか」と聞くと、首をふり、今日東京に行く予定で、迎えが来る、とおっしゃる。炬燵の上には病院の巡回バスの時刻表が。月一回病院に行き、検査を受けるそう。いつもは息子が山田病院に連れていってくれていた、と。
長年連れ添った大切な人とのつながりをいっぺんに失い、さらにこれからも大きな暮らしの変化を余儀なくされることを思うと、言葉がでない。
壁に貼られた海難救助の賞状について訊ねると、昭和51年、8月29日あわび漁をしていたKさん(夫とその父)がトドが崎沖でおぼれた人を救助したときのものとのこと。昔はヒジキ、ノリ、マツモを浜で拾ってきたりもしていたが、今はもうしない(マツモは緑色の海草の一種で、味噌汁にいれるとおいしいそう)。
うに漁について伺う。海からあげたうには、男女で工場で殻をむく。その作業は朝4時から8時ごろまでの時間帯に行う。5センチ以下の小さなうには海に返すという約束があるそう。
話の途中で、夫の弟さんが山で山菜を取りに行くために立ち寄る。
夫は9人兄弟だが、焼津に嫁いだ妹以外は被災した。"かまど”(分家の意)になった人が田の浜にいる。地震の後は田の浜から火があがってきた。
調味料、日用品、らっきょう、酒をお渡しすると、喜んでもらってくださる。「こんなに欲張りをして・・」とおっしゃる。一緒に写真を撮り、また手紙を書きますね、と言うと、「書いてね」と。
K家を跡にし、大浦港へ。道すがら、杖をついて歩いているおじいさんに声をかけると、大浦港方面に行くとのこと、途中までご一緒することに。車中、明治の津波は大浦と小谷鳥間の鞍部近くまで波が来たこと、故に、水境(みずさかい)と地元では呼んでいると教えてくださる。私たちと出会ったことを「狐につつまれたような感じ」と、不思議がられる。遠慮をされて、結局目的地まで送ることは出来なかった。
チームサケ:集落のための東日本大震災復興支援サイト
team SAKEは、人・モノ・技術・知識などを通じて、三陸のみなさんの「望み」が少しでも実現するよう動いています。
集落を訪問し、対話を通じてそれらの「望み」に触れながら、それを全国のみなさんと共有し、御協力いただきながら、形にしていくプロセスに関わっていこうと思います。
ENGLISH version
0 件のコメント:
コメントを投稿
※お願い:【募集中】の記事にコメントをする場合は「このブログの使い方」を読んでからコメントをお願いします。