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日曜日, 4月 17

13日から15日に帰ってくるまで

13日には、前日に牡鹿半島を訪問したときに聞いていたニーズに応えるべく、牡鹿半島の小渕浜を再訪した。
社長さんが見せてくれたのは、手作りの薪で湯を沸かす仕組みだった。
流されていたステンレスの湯船を使って、下から大きな薪を焚いて湯を沸かし、部屋の中にある湯船にホースで湯を入れるようにしていた。
薪は周りにいくらでもあるけど、大きすぎる物をのこぎりで切っているが、電気チェーンソーがあれば助かるという話だった。
震災後手に入れた発電機があり、少し電気が使えるのだ。
その晩、石巻のホームセンターに売っていたチェーンソーとリンゴを買って持って行った。
社長は喜んで写真まで撮らせてくれた。

奥様は、私たちの再訪を心から喜んでくれた。
車中で泊まっていると言うと、何度も是非泊まっていってくださいと私たちの健康を気遣ってくれた。
私たちもうれしいし元気をもらった。

牡鹿半島には女川原発があり、その周辺の小集落は孤立している可能性が高く気になっていたので、車や人が入れる限り隅々まで調査した。
原発の中を通り抜けると行けるかもしれない小集落もあったが、原発の警備厳重な入り口で門前払いをくらった。

馬場中山集落には、前回訪問した時にリクエストがあった震災に関する法律相談のQ&A集をネットで見つけたので、それを印刷した物を渡した。
team SAKEがきたということで喜んでいただき、是非泊まっていきなさいと勧められた。
どこで寝ていたのかと聞かれ、車で寝ていましたと言うと、被災者よりひどいじゃないかと言われ是非泊まっていくようにとさらに勧められた。
何度もお断りしたが、もう泊まることが決まっているかのようにとんとん拍子に話が進み、何度もお断りしたが、結局はご飯と飲み物をありがたく頂き、一晩泊めていただいた。
夜に火を囲み飲みながら話していた時のこと。
「もし今度関西で地震がきたら、ここから10トンの船に物資を満載にしていくから」と言われた時は胸がいっぱいになりうれしかった。
京都だと舞鶴港だから遠いかなとか、10トンじゃ少ないだろう、とか皆さん明るくつっこみをいれあいながら笑いがたえない会話が続く。
皆さんの明るいもてなしが心にしみた。
これだけの現状の前に前向きに乗り越えていこうと力を合わせている姿は、何か美しい。

14日は、前日馬場中山で9時に消灯なので早寝していた関係で4時には目が覚め、6時には移動し始めた。
第二陣で訪れた岩井崎避難所に伊予柑やレトルト食品、米などの支援物資を届けた。
この民宿では、第二陣のメンバーがデジカメを落としていたのを保管してくれていた。
この日は仙台経由で福島まで移動なので、午前中のうちに石巻に引き返した。

帰ってきてこれを書きながら気づいたこと。
実際に余震が大きかったし(滞在中震度5以上かと思う余震が3回あった)、毎日小さな地震の揺れを体感していることもあり、自分が大きな恐怖感を持っていたことを自覚している。
1つには原発の目に見えない恐さをはじめて実感した。
今は大丈夫でも、石巻の近くにある女川原発、ずっと危険な状態が続く福島第一原発で、万が一の事が起こると自分の命だけでなく仲間の命が危険にさらされるということに、大きな恐怖を感じた。
2つめには同じチームに学生の仲間がいて、彼に万が一のことがあったらと思うと第三陣リーダーとして更に重く責任がのしかかってきた。
大きな余震が頻発していることと原発の危険が二つあわさると私の中で恐怖感がいやでも沸き上がってきたのだ。
この責任感と恐怖感は私を緊張させた。
現地の方の大きな余震と原発への心配を痛感した。
すさまじく破壊された街の現実と緊張感で心がおれそうになるのを支えてくれたのは、現地で出会った方の笑顔やつながりだ。
もちろん、仲間のサポートも大きい。
いろんなつながりに心から感謝したい。

第三陣は、15日に無事京都に帰ってきました。
色んな形でサポートしていただいている皆さんのおかげで、すでにこちらで報告させていただいているように、かゆいところに手が届く活動が出来たと思います。
ありがとうございます。

18日(月曜日)の夜に京都で報告会を予定しています。

team SAKE つよし

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