河北新報6月7日版に、船越の記事が掲載されました。
ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。
■天然ワカメ協業化に手応え 石巻・雄勝で収穫始まる
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
天然ワカメ協業化に手応え 石巻・雄勝で収穫始まる
宮城県石巻市雄勝町の船越漁港で6日、天然ワカメの収穫が始まった。船や漁具を共同で使用する初めての作業で、7日以降、収穫と出荷作業を本格化させる。
初日の作業には県漁協雄勝町東部支所の有志でつくる「ホダデ協業部会」の会員ら約10人が参加した。小船2隻に6人が分乗し、港周辺の磯場に出漁。約4メートルの柄が付いた鎌で旬を迎えた天然ワカメを刈り取った。
波が高く、水の透明度が低い悪条件にもかかわらず、約30分の作業で約500キロを収穫した。浜に1台だけ残ったボイル釜で湯通しし、塩蔵処理した。
協業部会は7日以降、津波被害を免れた船3隻と修理した2隻を使って6月末まで漁を続ける。1日4~5トンの収穫を見込んでおり、石巻市の業者を通じ出荷する。
協業部会の生出藤弥さん(55)は「試験操業としては収量は上々。肉厚で品質もいい」と手応えを感じた様子だった。
2011年06月07日火曜日
チームサケ:集落のための東日本大震災復興支援サイト
team SAKEは、人・モノ・技術・知識などを通じて、三陸のみなさんの「望み」が少しでも実現するよう動いています。
集落を訪問し、対話を通じてそれらの「望み」に触れながら、それを全国のみなさんと共有し、御協力いただきながら、形にしていくプロセスに関わっていこうと思います。
ENGLISH version
火曜日, 6月 7
小原木中学校避難所 近況
6月6日、小原木中学校の方からご連絡をいただきました。
「チームSAKEさんには、いろいろ送ってもらって、とても感謝しています。
現在、中学校のグラウンドに仮設住宅が立つ計画もあり、また唐桑半島の方の団地などに移られた方もおり、避難所としては人数が減ってきています。
ただし、まだまだ仮設が足りず、抽選にも漏れた方がいっぱい(40~50人くらい)避難所には残っています。
梅雨時期に入る前に、毛布などの洗濯を進めたいのですが、柔軟剤がありません。洗剤はいっぱい来るのですが、毛布を洗う柔軟剤はなかなか届きません。チームSAKEさんはとても頼みやすいので、ついお願いをしてしまうのですが、とても感謝しております。」
とのこと。
地域の復興に向けた話し合いも、毎週日曜日に集まっているとか。
まだまだ長期的な支援が必要です。
気軽に頼める支援先。そんな関係が築けていることにうれしさを感じます。
みなさん、引き続き支援をよろしくお願いします。
⇒小原木支援募集中一覧
チームSAKE 川手光春
「チームSAKEさんには、いろいろ送ってもらって、とても感謝しています。
現在、中学校のグラウンドに仮設住宅が立つ計画もあり、また唐桑半島の方の団地などに移られた方もおり、避難所としては人数が減ってきています。
ただし、まだまだ仮設が足りず、抽選にも漏れた方がいっぱい(40~50人くらい)避難所には残っています。
梅雨時期に入る前に、毛布などの洗濯を進めたいのですが、柔軟剤がありません。洗剤はいっぱい来るのですが、毛布を洗う柔軟剤はなかなか届きません。チームSAKEさんはとても頼みやすいので、ついお願いをしてしまうのですが、とても感謝しております。」
とのこと。
地域の復興に向けた話し合いも、毎週日曜日に集まっているとか。
まだまだ長期的な支援が必要です。
気軽に頼める支援先。そんな関係が築けていることにうれしさを感じます。
みなさん、引き続き支援をよろしくお願いします。
⇒小原木支援募集中一覧
チームSAKE 川手光春
月曜日, 6月 6
岩井崎の記事(河北新報)
河北新報6月6日版に、岩井崎の記事が掲載されました。
ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。
■津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿
潮吹き岩などの観光名所で知られる宮城県気仙沼市の岩井崎地区で唯一、東日本大震災による津波の被害を免れた民宿が、避難者を受け入れ続けている。震災直後は近くの住民が約2カ月にわたって身を寄せ、現在は2次避難者が生活する。「かつての観光地に戻ってほしい」。民宿を営む家族は復興を願いながら、被災者を支える。
避難者を受け入れているのは、海に突き出た岩井崎の先端部の高台にある民宿「崎野屋」。畠山正朋さん(73)が夫婦で1973年に始め、現在は長男夫婦と4人で切り盛りしている。
震災が起きた3月11日、畠山さん夫婦は民宿にいた。近所の人と海を眺めていると徐々に波が引いた後、急激に水位が上昇した。民宿がある標高約11メートルの高台を囲むように津波が押し寄せ、一時孤島となった。周囲の家々は「バリバリ」と音を立てて壊れた。
市中心部につながる市道2本は、橋の落下とがれきで寸断された。11日夜は民宿で、周辺住民や近くの県気仙沼水産試験場の職員ら50人がろうそくの明かりを頼りに一夜を過ごした。
12日以降は宿泊客向けに仕入れていた米や海産品、野菜を使って連日食事を提供。救援の飲料水が届くまでは、井戸水を沸かして飲んだり、生活用水に使ったりした。
畠山さんは「近所の人たちも食料や毛布を持ち寄った。ライフラインが止まっても協力して支え合った」と振り返る。
避難者は徐々に少なくなったが、受け入れは5月18日まで続いた。電気や水道が復旧した後の同22日以降は、2次避難者16人が身を寄せる。
自宅が津波で流された同市本吉町三島の元船員三浦照夫さん(67)、捷美さん(66)夫婦は別々に避難していたが、この民宿で一緒に暮らすことができた。透析の治療を受けている捷美さんは「バランスのいい食事ができるし、風呂にも入れる」と感謝した。
岩井崎地区にあったほかの民宿10軒はほぼ全壊した。畠山さんは「仲間だった同業者がいなくなってしまい寂しい。早く再建して観光客でにぎわう岩井崎に戻ってほしい」と話している。
(田柳暁)
2011年06月06日月曜日
ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。
■津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
津波免れ、避難者の「家」に 気仙沼・岩井崎の高台の民宿
潮吹き岩などの観光名所で知られる宮城県気仙沼市の岩井崎地区で唯一、東日本大震災による津波の被害を免れた民宿が、避難者を受け入れ続けている。震災直後は近くの住民が約2カ月にわたって身を寄せ、現在は2次避難者が生活する。「かつての観光地に戻ってほしい」。民宿を営む家族は復興を願いながら、被災者を支える。
避難者を受け入れているのは、海に突き出た岩井崎の先端部の高台にある民宿「崎野屋」。畠山正朋さん(73)が夫婦で1973年に始め、現在は長男夫婦と4人で切り盛りしている。
震災が起きた3月11日、畠山さん夫婦は民宿にいた。近所の人と海を眺めていると徐々に波が引いた後、急激に水位が上昇した。民宿がある標高約11メートルの高台を囲むように津波が押し寄せ、一時孤島となった。周囲の家々は「バリバリ」と音を立てて壊れた。
市中心部につながる市道2本は、橋の落下とがれきで寸断された。11日夜は民宿で、周辺住民や近くの県気仙沼水産試験場の職員ら50人がろうそくの明かりを頼りに一夜を過ごした。
12日以降は宿泊客向けに仕入れていた米や海産品、野菜を使って連日食事を提供。救援の飲料水が届くまでは、井戸水を沸かして飲んだり、生活用水に使ったりした。
畠山さんは「近所の人たちも食料や毛布を持ち寄った。ライフラインが止まっても協力して支え合った」と振り返る。
避難者は徐々に少なくなったが、受け入れは5月18日まで続いた。電気や水道が復旧した後の同22日以降は、2次避難者16人が身を寄せる。
自宅が津波で流された同市本吉町三島の元船員三浦照夫さん(67)、捷美さん(66)夫婦は別々に避難していたが、この民宿で一緒に暮らすことができた。透析の治療を受けている捷美さんは「バランスのいい食事ができるし、風呂にも入れる」と感謝した。
岩井崎地区にあったほかの民宿10軒はほぼ全壊した。畠山さんは「仲間だった同業者がいなくなってしまい寂しい。早く再建して観光客でにぎわう岩井崎に戻ってほしい」と話している。
(田柳暁)
2011年06月06日月曜日
土曜日, 6月 4
小渕浜の記事(朝日新聞)
朝日新聞6月4日版に、小渕浜の記事が掲載されました。
ウェブ上でも「Asahi.com」において、閲覧することができます。
■漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」
2011年6月4日15時31分
津波で電気が途絶えていた宮城県石巻市小渕浜の県漁協表浜支所に3日夕、震災後初めて明かりがともった。環境NPOや市民団体が屋上に太陽光発電パネルを設置した。
小渕浜では津波で多くの家が流され、支所の組合員だけで十数人が亡くなった。がれきの撤去など地域で支援活動をしていたボランティアが、太陽光発電パネルを無償で設置しているNPOと連携。3日、6枚のパネルが設置された。
ウェブ上でも「Asahi.com」において、閲覧することができます。
■漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
漁協再建へ太陽光パネル 「これで夜まで仕事できる」
2011年6月4日15時31分
津波で電気が途絶えていた宮城県石巻市小渕浜の県漁協表浜支所に3日夕、震災後初めて明かりがともった。環境NPOや市民団体が屋上に太陽光発電パネルを設置した。
小渕浜では津波で多くの家が流され、支所の組合員だけで十数人が亡くなった。がれきの撤去など地域で支援活動をしていたボランティアが、太陽光発電パネルを無償で設置しているNPOと連携。3日、6枚のパネルが設置された。
宮城県震災復興会議の記事(河北新報)
河北新報6月6日版に、宮城県震災復興会議の記事が掲載されました。
ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。
■職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議
会議の席上、宮城県知事は三陸海岸での「職住分離」を進める復興方針を示したのに対し、複数の委員が「コミュニティ分断につながる」などとして反対意見を出しました。
私はTeam SAKEでの活動を通じて、集落に住む人々が、どれだけその土地とつながりを保ちながら生活してきたのかを実感してきました。また、集落コミュニティ内で維持されてきた顔の見える関係が、震災時にどれだけの人命を救ってきたかも、つぶさに見聞きしてきました。
集落に住む多くの人にとって、集落コミュニティは生活の基盤であるばかりでなく、人生そのものであると思われます。「宮城モデル」として発信されるものが、果たしてどのような形となるのか、集落の人々の現実からかい離した考えで策定されていかれないか、注意深く見守っていきたいと考えています。
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議
宮城県震災復興会議(議長・小宮山宏三菱総合研究所理事長)の第2回会合が3日、東京都内のホテルで開かれ、県は住宅の高台移転などを盛り込んだ「県震災復興計画第1次原案」を示した。大津波に襲われた沿岸部で、住居と職場を分ける「職住分離」を進める県方針に対し、複数の委員が「コミュニティーが壊れる」と異論を唱えた。
1次原案で県は、沿岸部の住宅や学校、病院などは高台に移転する方針を明記。港に津波避難ビルを整備し、水産関係者は高台から通勤する「宮城モデル」のまちづくりを構築するとした。
公共政策に詳しい千葉大教授の広井良典委員は「職住分離を強調した原案には違和感がある。最近のまちづくりは、コミュニティー分断を懸念し、職場と住居をあまり分けない」と指摘した。
建築家の岡田新一委員も「三陸沿岸の高台にどれだけの土地があるか疑問だし、自然破壊という次なる災害をもたらす恐れも多分にある。都市計画の基本を曲げてはならない」と再考を促した。
日本総研理事長の寺島実郎委員は「海から離れたがらない漁業者もいる。職住分離と決めつけずに、地域で考えさせてはどうか。『安全な職住近接』という考え方もあっていい」と強調した。
村井嘉浩知事は「遠く離れた場所に住み、何時間も掛けて通勤するわけではない。職場まで車で数分の近隣に暮らすが、津波の再来も想定し、場所は安全な高台という意味だ」と理解を求めた。
第3回会合は7月13日に都内で開く。県は7月上旬に第2次原案を取りまとめ、8月下旬の第4回会合を経て、県議会9月定例会に最終案を提出する。
2011年06月04日土曜日
ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。
■職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議
会議の席上、宮城県知事は三陸海岸での「職住分離」を進める復興方針を示したのに対し、複数の委員が「コミュニティ分断につながる」などとして反対意見を出しました。
私はTeam SAKEでの活動を通じて、集落に住む人々が、どれだけその土地とつながりを保ちながら生活してきたのかを実感してきました。また、集落コミュニティ内で維持されてきた顔の見える関係が、震災時にどれだけの人命を救ってきたかも、つぶさに見聞きしてきました。
集落に住む多くの人にとって、集落コミュニティは生活の基盤であるばかりでなく、人生そのものであると思われます。「宮城モデル」として発信されるものが、果たしてどのような形となるのか、集落の人々の現実からかい離した考えで策定されていかれないか、注意深く見守っていきたいと考えています。
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
職住分離に異論噴出 復興計画1次案提示 宮城県会議
宮城県震災復興会議(議長・小宮山宏三菱総合研究所理事長)の第2回会合が3日、東京都内のホテルで開かれ、県は住宅の高台移転などを盛り込んだ「県震災復興計画第1次原案」を示した。大津波に襲われた沿岸部で、住居と職場を分ける「職住分離」を進める県方針に対し、複数の委員が「コミュニティーが壊れる」と異論を唱えた。
1次原案で県は、沿岸部の住宅や学校、病院などは高台に移転する方針を明記。港に津波避難ビルを整備し、水産関係者は高台から通勤する「宮城モデル」のまちづくりを構築するとした。
公共政策に詳しい千葉大教授の広井良典委員は「職住分離を強調した原案には違和感がある。最近のまちづくりは、コミュニティー分断を懸念し、職場と住居をあまり分けない」と指摘した。
建築家の岡田新一委員も「三陸沿岸の高台にどれだけの土地があるか疑問だし、自然破壊という次なる災害をもたらす恐れも多分にある。都市計画の基本を曲げてはならない」と再考を促した。
日本総研理事長の寺島実郎委員は「海から離れたがらない漁業者もいる。職住分離と決めつけずに、地域で考えさせてはどうか。『安全な職住近接』という考え方もあっていい」と強調した。
村井嘉浩知事は「遠く離れた場所に住み、何時間も掛けて通勤するわけではない。職場まで車で数分の近隣に暮らすが、津波の再来も想定し、場所は安全な高台という意味だ」と理解を求めた。
第3回会合は7月13日に都内で開く。県は7月上旬に第2次原案を取りまとめ、8月下旬の第4回会合を経て、県議会9月定例会に最終案を提出する。
2011年06月04日土曜日
ラベル:
その他の記事
第7陣 船越(雄勝半島)
本日、京都に戻りましたチームサケ7陣のはるかです。
今回は、船越で集落の集会があったので、そこにお邪魔してきました。
時間があまりなかったのですが、1陣が一番初めに訪れた波伝谷(はでんや)という集落にも足をのばしました。
当時、道がなく孤立状態にあって、山づたいに自転車と物資を担いでいたころからは、考えられないくらい復旧が進んでいます。多くの方の力を感じます。
他にも、顔を出したい集落はあるのですが、前回に引き続き船越に集中した活動となりました。

船越で生活をしている方たちの一日は、(たぶん)4時半頃に始まっています。
(私らが起きる頃には、すでに皆さん起きて動いています。)
日の出とともに活動を始め、7時前に朝ご飯を終えます。
その頃、車で30名くらいの方が入ってきます。
みなさん、避難生活を送っておられる方たちで、船越には家も何もありません。
石巻や登米、仙台などから毎日通っておられる方たちがいます。
2時間も3時間もかけて通い、瓦礫の撤去、漁具の回収、大切なものを探したり、復旧作業をしたり、学校の掃除をしたりしています。(まだ見つからない人も探し続けています。)
避難生活が長期化するに従い、意思統一が難しくなります。
毎日作業に帰って来られている方は復興の思いが強く、確かめ合えるとしても、避難先で長く過ごされている方たちには、様子もわからず、必然的に難しいことだと思います。
船越では、集落内で避難生活を打ち切った4月10日を境に、皆がバラバラになってしまいました。
4月1日に集会をして以来、毎1日、15日は集落に集まる日に決めました。
毎回何名が集まるかは、当日蓋をあけるまでわかりません。
今回、私と大学生のボランティアのメグは集会の前日に入り、メグは、復興したい思いのある中心メンバーのイメージする将来像をイラストにしました。
集会当日の早朝サケメンバー3名が合流し、東京から建築士の方、宮城県内の建築科の大学生も来られました。
集落の復興を望む中心メンバーは、朝から特別な面持ちでした。
復興のイメージを伝える特別な日だったからです。
加えて、皆が船越に住みたいと思っているのか、住みたくないと思っているのかを問うても良い時期だと判断していたため、アンケートを用意していました。
私たちも途中から集会にお邪魔しました。
若い漁師さんたち、おっかぁたちは、皆後ろの方にいました。
小学校の3階は、とてもきれいになっていて、津波をかぶったとは思えない環境です。
そこに100名が集っていました。

ここに詳しく書くことはできませんが、集会は集落の歴史上、とても大切な一点にいるように感じました。
再びこの船越で皆でこころ豊かに暮らしたい一心で、また子や孫、その先の子どもたちのことを思って日々自主的に作業してきた中心メンバーの深くあたたかい想いが垣間見える度、とても力強くしなやかなやさしさに包まれ、胸が熱くなります。
一方で、残念な場面もあり、悲しさや悔しさで涙が止まらなくなることもありました。
あきらめている方たちもいるし、希望を持って動いている方たちもいるし、その間で揺れている方たちもいます。今回、着々と進んでいる部分、足りていない部分、夢の絵図を共有し、更に皆さんの気持ちは揺れていると思います。今まで見たどんな場面よりも、「人間」を見ている感じがしました。
次回の集会も多くの方が参加されると予想されます。
「津波の後、互いのイヤな面を見る場面もたくさんあった。でもそれは人のやったことじゃなく、津波のやったことだと考えている。あれからもう大きな津波はこない。これからは人の心も元に戻る。お互いを責めないでいきたい。またみんなで生きていきたいだけなんだ。」中里さんからの電話で
7陣はるか
今回は、船越で集落の集会があったので、そこにお邪魔してきました。
時間があまりなかったのですが、1陣が一番初めに訪れた波伝谷(はでんや)という集落にも足をのばしました。
当時、道がなく孤立状態にあって、山づたいに自転車と物資を担いでいたころからは、考えられないくらい復旧が進んでいます。多くの方の力を感じます。
他にも、顔を出したい集落はあるのですが、前回に引き続き船越に集中した活動となりました。
船越で生活をしている方たちの一日は、(たぶん)4時半頃に始まっています。
(私らが起きる頃には、すでに皆さん起きて動いています。)
日の出とともに活動を始め、7時前に朝ご飯を終えます。
その頃、車で30名くらいの方が入ってきます。
みなさん、避難生活を送っておられる方たちで、船越には家も何もありません。
石巻や登米、仙台などから毎日通っておられる方たちがいます。
2時間も3時間もかけて通い、瓦礫の撤去、漁具の回収、大切なものを探したり、復旧作業をしたり、学校の掃除をしたりしています。(まだ見つからない人も探し続けています。)
避難生活が長期化するに従い、意思統一が難しくなります。
毎日作業に帰って来られている方は復興の思いが強く、確かめ合えるとしても、避難先で長く過ごされている方たちには、様子もわからず、必然的に難しいことだと思います。
船越では、集落内で避難生活を打ち切った4月10日を境に、皆がバラバラになってしまいました。
4月1日に集会をして以来、毎1日、15日は集落に集まる日に決めました。
毎回何名が集まるかは、当日蓋をあけるまでわかりません。
今回、私と大学生のボランティアのメグは集会の前日に入り、メグは、復興したい思いのある中心メンバーのイメージする将来像をイラストにしました。
集会当日の早朝サケメンバー3名が合流し、東京から建築士の方、宮城県内の建築科の大学生も来られました。
集落の復興を望む中心メンバーは、朝から特別な面持ちでした。
復興のイメージを伝える特別な日だったからです。
加えて、皆が船越に住みたいと思っているのか、住みたくないと思っているのかを問うても良い時期だと判断していたため、アンケートを用意していました。
私たちも途中から集会にお邪魔しました。
若い漁師さんたち、おっかぁたちは、皆後ろの方にいました。
小学校の3階は、とてもきれいになっていて、津波をかぶったとは思えない環境です。
そこに100名が集っていました。
ここに詳しく書くことはできませんが、集会は集落の歴史上、とても大切な一点にいるように感じました。
再びこの船越で皆でこころ豊かに暮らしたい一心で、また子や孫、その先の子どもたちのことを思って日々自主的に作業してきた中心メンバーの深くあたたかい想いが垣間見える度、とても力強くしなやかなやさしさに包まれ、胸が熱くなります。
一方で、残念な場面もあり、悲しさや悔しさで涙が止まらなくなることもありました。
あきらめている方たちもいるし、希望を持って動いている方たちもいるし、その間で揺れている方たちもいます。今回、着々と進んでいる部分、足りていない部分、夢の絵図を共有し、更に皆さんの気持ちは揺れていると思います。今まで見たどんな場面よりも、「人間」を見ている感じがしました。
次回の集会も多くの方が参加されると予想されます。
「津波の後、互いのイヤな面を見る場面もたくさんあった。でもそれは人のやったことじゃなく、津波のやったことだと考えている。あれからもう大きな津波はこない。これからは人の心も元に戻る。お互いを責めないでいきたい。またみんなで生きていきたいだけなんだ。」中里さんからの電話で
7陣はるか
木曜日, 6月 2
船越の記事(河北新報)
河北新報6月2日版に、船越の記事が掲載されました。
ウェブ上でも「Kahoku Online Network」において、閲覧することができます。
■焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起
<石巻・雄勝・協業化始動/釜一つ、まずワカメ/「人生つらい方に懸けるのもいい」>
浜にたった1台だけ残ったワカメのボイル釜。石巻市雄勝町船越の漁師グループは近く、この釜を頼りに漁を再開する。「協業化の第一歩だ」。1日、リーダーの中里孝一さん(55)は力を込めた。
北上川が注ぐ追波湾に面する船越はホタテやワカメの養殖が盛んだった。津波の襲来で、150隻あった漁船は3隻を残し流された。養殖施設や定置網も海に消えた。高台の一部を除き、住宅もほとんど破壊された。
中里さんも刺し網漁に使っていた「第7孝丸」(4.8トン)など所有する3隻を失った。見通しが立たない古里での暮らし。三男はまだ高校生だ。「商船にでも乗って稼げば楽になる」。一時は廃業も考えた。
地区外の避難所などに移り住む人が次第に増え、逆に気が変わった。「せっかくの人生。つらい方に懸けてみるのもいいかもしれない」。同級生で漁師仲間の生出藤弥さん(55)と話し合ううちに、協業組織による再出発を決意した。
30~60代前半の漁師17人によるグループを「ホダデ協業部会」と名付けた。東北なまりと「伊達(だて)」を掛けた。養殖物のブランド化を視野に入れ、「キャラクターマークも決めてある」と中里さんは笑う。
天然ワカメ漁は数日中に始める。協業部会のメンバーは残った道具をかき集め、釜の修理を急ぐ。年内の早い時期に養殖施設を共同で設置し、ワカメやホタテの養殖を再開させる考えだ。
(大友庸一)
2011年06月02日木曜日
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■焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起
team SAKE 足立
~~~以下掲載記事~~~
焦点/宮城県漁協/漁自粛解除、見えぬ再起
<石巻・雄勝・協業化始動/釜一つ、まずワカメ/「人生つらい方に懸けるのもいい」>
浜にたった1台だけ残ったワカメのボイル釜。石巻市雄勝町船越の漁師グループは近く、この釜を頼りに漁を再開する。「協業化の第一歩だ」。1日、リーダーの中里孝一さん(55)は力を込めた。
北上川が注ぐ追波湾に面する船越はホタテやワカメの養殖が盛んだった。津波の襲来で、150隻あった漁船は3隻を残し流された。養殖施設や定置網も海に消えた。高台の一部を除き、住宅もほとんど破壊された。
中里さんも刺し網漁に使っていた「第7孝丸」(4.8トン)など所有する3隻を失った。見通しが立たない古里での暮らし。三男はまだ高校生だ。「商船にでも乗って稼げば楽になる」。一時は廃業も考えた。
地区外の避難所などに移り住む人が次第に増え、逆に気が変わった。「せっかくの人生。つらい方に懸けてみるのもいいかもしれない」。同級生で漁師仲間の生出藤弥さん(55)と話し合ううちに、協業組織による再出発を決意した。
30~60代前半の漁師17人によるグループを「ホダデ協業部会」と名付けた。東北なまりと「伊達(だて)」を掛けた。養殖物のブランド化を視野に入れ、「キャラクターマークも決めてある」と中里さんは笑う。
天然ワカメ漁は数日中に始める。協業部会のメンバーは残った道具をかき集め、釜の修理を急ぐ。年内の早い時期に養殖施設を共同で設置し、ワカメやホタテの養殖を再開させる考えだ。
(大友庸一)
2011年06月02日木曜日
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